旧紙幣に描かれていた人物たち、覚えていますか?

旧紙幣に描かれていた人物たち、覚えていますか?

旧紙幣に描かれている人物について、疑問に思ったことはありませんか?「旧紙幣の人物は誰?」「あの旧札の顔の人って何をした人?」など、気になる旧札にまつわる情報を分かりやすく解説します。本記事では、過去の紙幣に描かれた歴史的人物やその背景についてご紹介。お札に込められた歴史や文化を知ることで、旧紙幣をより深く楽しむことができるかもしれません!

旧札(旧1万円札)の人物は誰?

旧札の1万円札は、下記3種類があります。肖像画として描かれている人物は「福沢諭吉」と「聖徳太子」です。

福沢諭吉 10,000円札 E号券

福沢諭吉 10,000円札 E号券

福沢諭吉 10,000円札 D号券

福沢諭吉 10,000円札 D号券

聖徳太子 10,000円札

聖徳太子 10,000円札

福沢諭吉って何をした人?

福沢諭吉(ふくざわゆきち)は、江戸時代の終わりから明治時代のはじめにかけて、日本をより良い国にするために活躍した偉大な教育者であり思想家です。彼は、現在の慶應義塾大学のもととなる「慶應義塾」という学校を作りました。この学校では、身分の違いに関係なく、西洋の学問を学べる場を提供し、これは当時としてはとても画期的なことでした。

福沢諭吉はまた、多くの本を著しました。『西洋事情』では、西洋の科学や技術、政治、教育についてわかりやすく紹介し、多くの人々に影響を与えました。さらに、代表作『学問のすゝめ』では、学問を学ぶことの重要性や、自分で自由に考え、自立することの大切さを説きました。この本は300万部も売れるほど大ヒットとなりました。

彼は海外にも多く訪れ、1860年にアメリカ、翌年にはヨーロッパを訪れ、西洋の文化や技術を実際に学びました。この経験をもとに、日本に新しい知識を持ち帰り、それを多くの人に広めたのです。また、江戸幕府で翻訳の仕事をしていたため、英語やオランダ語が堪能でした。この能力を活かし、外国の本や資料を日本語に翻訳して紹介する活動も行いました。

また、日本で初めて天気予報を掲載したのも福沢諭吉というのはご存知でしょうか?福沢は新聞『時事新報』を創刊し、その中で天気予報を掲載しました。

晩年の福沢諭吉は1891年、56歳の時に撮影された肖像画で一万円札にも描かれることになりました。その頃の彼はまだ元気でしたが、1901年に68歳で亡くなりました。葬式には1万5,000人もの人々が参加し、彼がどれだけ多くの人々に愛されていたかがわかります。

福沢諭吉は、西洋の知識を日本に広め、日本を近代的で自立した国にするために大きく貢献した人物として、今も多くの人々に尊敬されています。

参考:旧一万円札福沢諭吉の価値は?

聖徳太子って何をした人?

聖徳太子(574年~622年)は、飛鳥時代に活躍した日本の歴史上重要な人物で、推古天皇のもとで摂政として政治を支えました。彼の功績は、日本の政治や文化、仏教の発展に大きな影響を与えています。

聖徳太子は603年に「冠位十二階」という制度を作り、家柄ではなく才能や功績で役職を決める仕組みを導入しました。これにより、能力を重視した新しい官僚制度が始まりました。また、604年には「十七条憲法」を制定し、政治を行う上での倫理や道徳を示しました。その中でも「和を以って貴しと為す」という言葉は、調和や協力の大切さを教えるものとして有名です。

彼は仏教にも深く関わり、多くの寺院を建てるだけでなく、仏教経典の注釈書を書き、仏教文化の普及に力を入れました。法隆寺四天王寺といった有名な寺院は、彼が建立したものとされています。また、607年には隋に小野妹子を遣隋使として派遣し、中国の進んだ文化や技術を日本にもたらしました。このとき、聖徳太子は日本の独立性を強調するため、手づかみでの食事をやめ、箸を使うことを奨励したと言われています。これが日本で箸が広まるきっかけになったとされています。

さらに、聖徳太子は福祉の分野でも貢献しました。彼は四天王寺に悲田院という施設を作り、病人や孤児、高齢者を助けました。この取り組みは、現在の「敬老の日」の由来のひとつとも言われています。

幼い頃から非常に賢いとされ、一度に10人の話を聞き分けられるという逸話があるほど、彼の聡明さは伝説的です。その人格は仏教精神に深く根ざしており、「救世観世音菩薩の化身」として崇められることもありました。

彼の業績は日本の国家制度や文化の基礎を築いたものとされ、今なお高く評価されています。一方で、近年ではその実在性について議論されることもありますが、彼が日本史に与えた影響は非常に大きいものです。

参考:聖徳太子ってどんな人?歴史や紙幣への採用理由を解説

旧札(旧5千円札)の人物は誰?

旧札の5000円札は、下記3種類があります。肖像画として描かれている人物は「樋口一葉」と「新渡戸稲造」、そして「聖徳太子」の3人です。

樋口一葉 5,000円札

樋口一葉 五千円札

新渡戸稲造 5,000円札

新渡戸稲造 五千円札

聖徳太子 5,000円札

聖徳太子 五千円札

樋口一葉って何をした人?

樋口一葉(ひぐちいちよう)は、明治時代を代表する女性小説家で、1872年に東京で生まれ、わずか24歳という短い生涯の中で、日本文学に大きな足跡を残しました。彼女の作品は、貧困や社会の不平等、女性の苦悩を鋭く描き、当時の文壇から高い評価を受けました。森鴎外などの著名な作家からも称賛され、その業績は今なお語り継がれています。

代表作には『たけくらべ』『にごりえ』『十三夜』があります。一葉は厳しい生活環境の中で創作活動を続け、わずか1年半という短い期間にこれらの傑作を次々と発表しました。特に、社会の弱者や貧困層の生活に焦点を当てた彼女の作品は、当時の日本社会の問題をリアルに描き出し、多くの読者に感銘を与えました。また、彼女が書いた『一葉日記』も、その文学的価値が高く評価されています。

幼少期から樋口一葉の文学への才能は際立っており、驚異的な読書力を持っていました。たとえば、滝沢馬琴の大長編『南総里見八犬伝』98巻をわずか3日で読破したという逸話は、彼女の文学への情熱と天才ぶりを象徴しています。

2004年には、樋口一葉の肖像が5000円紙幣に採用されました。これは日本の紙幣で女性が肖像画に選ばれた初めての例です。これにより、一葉の文学的業績と影響力が今も日本の文化において大きな意味を持っていることが示されています。

短い生涯ながらも、樋口一葉は日本文学に新しい光を投げかけ、後の時代に大きな影響を与えた女性作家として広く知られています。

参考:昔の5,000円札に価値はある?

新渡戸稲造って何をした人?

新渡戸稲造(にとべいなぞう)は、明治から昭和にかけて日本と世界をつなぐ重要な役割を果たした教育者、農学者、そして国際的な平和活動家です。1862年に生まれた彼は、日本の近代化にさまざまな形で貢献しました。その活動は教育、農業、国際関係と多岐にわたり、彼の業績は国内外で高く評価されています。

教育者として、新渡戸稲造は札幌農学校や京都帝国大学、東京帝国大学で教授を務め、知識と指導力を発揮しました。特に女子教育の発展に力を入れ、東京女子大学の初代学長として女性の学びの場を広げることに尽力しました。また、働きながら学ぶ若者たちのために「遠友夜学校」を設立し、無償で教育を提供するなど、教育への情熱を示しました。

農学者としても、彼は日本初の農学博士の一人として、農業の発展に寄与しました。台湾では総督府の技師として、糖業の発展を支援し、その成果は日本国内外で評価されました。

国際人としての新渡戸稲造は、『武士道』という書籍を英語で執筆し、日本の道徳思想を世界に紹介しました。この本は約20ヶ国語に翻訳され、アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領や発明家トーマス・エジソン、ジョン・F・ケネディ大統領も愛読したとされています。また、新渡戸は日本人として初めて国際連盟の事務次長を務め、国際平和に尽力しました。彼が提示した外交的解決策「新渡戸裁定」は、その調停力の象徴とされています。

新渡戸稲造は、その生涯を通じて教育、農業、そして国際的な平和活動に全力を注ぎ、日本と世界をつなぐ架け橋として多大な影響を与えた人物なのです。

旧札(旧2千円札)の人物は誰?

2004年以降、増刷されていない2,000円札も旧紙幣として今回は取り扱いますが、2000円札に描かれている人物は「紫式部」です。裏面の右下に描かれている人物が紫式部です。

2,000円札の表面

2,000円札の裏面

紫式部って何をした人?

紫式部(むらさきしきぶ)は、平安時代中期に活躍した女流作家であり歌人です。彼女の名は『源氏物語』の作者として広く知られており、世界でも最初期の長編小説の執筆者の一人とされています。その文学的才能は、平安時代の貴族文化や宮廷生活を鮮やかに描き、後世に深い影響を与えました。

紫式部の代表作『源氏物語』は、約9年かけて完成した長編物語で、光源氏を主人公に平安時代の恋愛模様や政治、家族の複雑な関係を繊細に描きました。この作品は「ひらがな」という新しい文字を用いて書かれ、女性たちを中心とした読者に親しまれました。また、その文学的価値は現在でも高く評価されており、世界的にも文学史に名を残す傑作とされています。

彼女はまた、『紫式部日記』という作品を通じて、自身の宮廷生活や周囲の人物たちの様子を記録しました。この日記は平安時代の文化や生活を知る重要な資料としても注目されています。さらに、彼女の和歌をまとめた『紫式部集』も後世に残され、歌人としての一面も評価されています。

紫式部は藤原道長にその才能を認められ、一条天皇の中宮である彰子(しょうし)の女房として宮廷に仕えました。宮廷では、和歌や漢詩の知識を生かして周囲の人々と交流しつつも、彼女自身は人見知りな性格だったと言われています。宮廷での人間関係に悩み、一時期は自宅に引きこもることもあったという逸話が伝えられています。

紫式部は29歳頃に結婚しましたが、これは当時としては晩婚とされます。夫との死別後、その悲しみを紛らわせるために『源氏物語』の執筆を始めたと伝えられています。このような背景からも、彼女の文学は個人の感情や生きた時代の空気が色濃く反映されていることがわかります。

紫式部の業績は日本文学の枠を超えて、世界文学の歴史にもその名を刻んでいます。その作品は現代まで読み継がれ、彼女の視点で描かれた平安時代の世界は、時代を超えて多くの人々を魅了し続けています。

参考:2000円札に首里城が描かれているのはなぜ?採用された背景を紹介

旧札(旧1000円札)の人物は誰?

旧札の5000円札は、下記の4種類。肖像画として描かれている人物は「野口英世」と「夏目漱石」、「伊藤博文」、「聖徳太子」の4人です。

野口英世 1,000円札

野口英世 千円札

夏目漱石 1,000円札

夏目漱石 千円札

伊藤博文 1,000円札

伊藤博文 千円札

聖徳太子 1,000円札

聖徳太子 千円札

野口英世って何をした人?

野口英世(のぐちひでよ)は、明治から大正期に活躍した日本を代表する細菌学者で、伝染病の研究を通じて世界に名を刻みました。彼の研究は、医学の発展に大きく貢献し、多くの病気の原因解明や治療の道を切り開きました。

野口英世は、幼少期に火傷によって左手に障害を負いましたが、その困難を乗り越え医学の道を志します。北里柴三郎の指導を受けた後、アメリカに渡り、ロックフェラー医学研究所で数々の研究を行いました。蛇毒の研究や梅毒スピロヘータの培養研究は、世界中から注目を集め、狂犬病や小児まひの研究でも高い評価を受けました。

野口英世の人生で特に知られているのは、黄熱病の研究です。彼はエクアドルやアフリカで病原体の解明に取り組みましたが、その過程で自身が黄熱病に感染し、1928年に命を落としました。彼の情熱的な研究姿勢は、「ヒューマンダイナモ(人間発電機)」というニックネームで称えられ、同僚たちからは「日本人はいつ寝るのだろう?」と驚かれるほどでした。

身体的には身長153cm、体重44~60kgと小柄で、靴のサイズも23cmとかなり小さかったようです。しかし、その小さな体で、世界的に影響力のある業績を次々と成し遂げました。

また、彼は発明王トーマス・エジソンや、大西洋横断飛行で有名なチャールズ・リンドバーグとも交友があったとされ、国際的なネットワークを活かして医学の発展に寄与しました。

現在、福島県には野口英世記念館が設立され、彼の業績や生き方が次世代に伝えられています。その生涯は、努力と情熱、そして不屈の精神で満ちており、多くの人々に希望と勇気を与え続けています。

参考:価値の高い1,000円札は?

夏目漱石って何をした人?

夏目漱石(なつめそうせき、本名:金之助)は、明治から大正時代にかけて活躍した日本を代表する小説家・英文学者であり、日本近代文学の確立に大きく貢献した人物です。1867年、江戸(現在の東京都新宿区)に生まれ、教養深く豊かな文学世界を築き上げました。

漱石は『吾輩は猫である』や『坊っちゃん』、『三四郎』、『それから』、『こゝろ』、『明暗』といった名作を残し、現代の書き言葉の基礎となる言文一致体を確立しました。彼の作品は人間の内面や社会問題を深く掘り下げており、今日でも教科書に取り上げられるなど、広く愛読されています。

漱石はもともと高等師範学校の英語教師で、イギリス留学を経て英文学の研究者としても高い評価を受けていました。しかし、40歳のときに東京帝国大学の教授就任を辞退し、朝日新聞社の専属作家となるという大胆な転身を遂げます。新聞連載という形で、『虞美人草』や『門』などの作品を発表し、文学を多くの読者に届けました。

また、漱石は自宅で「木曜会」と呼ばれる文学サロンを開き、芥川龍之介をはじめとする後進の育成にも力を注ぎました。この活動を通じて、次世代の文学者たちを育て、彼自身の文学的影響をさらに広げました。

彼の人生には波乱もありました。1910年、伊豆の修善寺温泉で療養中に吐血し、30分間心肺停止状態となる大病に襲われます。この臨死体験は彼の後期の作風に大きな影響を与え、『こころ』をはじめとする作品で「死」や人間の本質を深く掘り下げる描写が増えました。

漱石の文学的特徴は、当時の主流であった自然主義文学と一線を画す「余裕派」と呼ばれる作風にあります。人間の心の葛藤や、社会と個人の関係を独自の視点で描き、その普遍性は時代を超えて多くの読者を魅了し続けています。

夏目漱石は1916年、49歳の若さでこの世を去りましたが、その作品と思想は今も日本文学史において燦然と輝いています。彼の文学は、日本の文化的アイデンティティの一部として、国内外で広く評価されています。

参考:夏目漱石の旧千円札はいくらで売れる?

伊藤博文って何をした人?

伊藤博文(いとうひろぶみ)は、明治時代の日本で活躍した政治家で、日本の近代化と立憲政治の確立において大きな役割を果たしました。1841年に長州藩で生まれ、幕末から明治にかけて激動の時代を生き抜き、新しい日本の政治体制を築く中心人物となりました。

彼は1885年、日本で初めて内閣制度を創設し、初代内閣総理大臣に就任しました。その後も合計4度にわたり首相を務め、国の重要な政策に携わりました。特に、1889年に発布された「大日本帝国憲法」では、その起草の中心人物として大きく貢献しました。この憲法は、ドイツのプロイセン憲法を参考にしつつ、日本独自の立憲体制を形作るものでした。

伊藤はまた、1895年の日清戦争後に結ばれた下関講和条約の調印にも関与し、朝鮮半島や台湾の扱いについて重要な役割を果たしました。1900年には立憲政友会を結党し、初代総裁となるなど、政党政治の基盤を築くことにも尽力しました。さらに、1905年には初代韓国統監に就任し、日本の韓国保護国化政策を推進しましたが、この政策は後に日本の統治が批判を受ける一因ともなりました。

伊藤の性格は陽気で、人付き合いを大切にし、宴会で賑やかに振る舞うことが好きだったとされています。お酒好きでも知られ、社交の場では子どものようにはしゃぐ一面もありました。一方で、若い頃は過激な行動をとることもあり、建設中のイギリス領事館に放火するなど激しい行動を起こしたこともありました。また、女性関係の派手さでも知られ、芸者との恋愛が天皇から叱責されるほどでした。

伊藤博文の功績は、日本の近代化や立憲政治の基礎を築いた点で高く評価されています。しかし、その一方で、彼の行動や政策に対しては、賛否両論があることも事実です。彼の生涯は、時代を切り開いた先駆者としての努力と、彼を取り巻く人間らしいエピソードの両方が織り交ざったものでした。

参考:伊藤博文の千円札はいつまであった?1000円札が語る日本の歴史

旧札(旧500円札)の人物は誰?

旧札の500円札は、下記2種類ですが、肖像画として描かれている人物は「岩倉具視」の1人です。

岩倉具視 500円札 C号券

岩倉具視 500円札

岩倉具視 500円札 B号券

岩倉具視 五百円札

岩倉具視って何をした人?

岩倉具視(いわくらともみ)は、幕末から明治時代にかけて活躍し、日本の近代化に重要な役割を果たした政治家です。1825年に京都で生まれ、天皇に仕える公家として活躍した後、明治維新を経て日本の新しい政治体制の構築に貢献しました。

岩倉具視の最も大きな功績の一つは、1867年の「王政復古」を実現したことです。大久保利通や西郷隆盛らと協力して徳川幕府を廃止し、天皇中心の新政府を樹立しました。この動きは、明治維新の重要な転換点となりました。

1871年からは、岩倉使節団の特命全権大使として欧米諸国を視察しました。この2年間の視察は、日本の近代化における大きな学びの機会となり、文明開化の必要性を強く認識しました。帰国後は、版籍奉還や廃藩置県などの政策を進め、日本を中央集権国家へと導きました。

また、明治政府では右大臣に昇進し、日本鉄道会社の設立を主導するなど、産業や交通インフラの整備にも尽力しました。さらに、華族制度の維持や財産保護を図るために華族銀行を設立し、皇室と華族の地位を安定させることにも力を入れました。1881年には、京都の名勝や古蹟を保存する保勝会を設立し、京都の文化的復興にも寄与しました。

幼少期のエピソードとして、もともとの名前「具瞻(ともみ)」が画数が多く書きにくかったため、自らの希望で「具視」という簡略な名前に改めたことが伝えられています。この柔軟な考え方は、彼の実務的な性格を象徴していると言えるでしょう。

岩倉具視は、明治維新の成功に不可欠な人物であり、日本の近代国家としての基盤を築いた立役者の一人です。その功績は、現在の日本に至るまで大きな影響を与えています。

参考:岩倉具視500円札の価値は?全4種類の見分け方も解説

旧札(旧100円札)の人物は誰?

旧札の100円札は、下記の2種類。肖像画として描かれている人物は「板垣退助」と「聖徳太子」の2人です。

板垣退助 100円札

板垣退助 百円札

聖徳太子 100円札

日本銀行券A号100円(4次100円)

板垣退助って何をした人?

板垣退助(いたがきたいすけ、1837年5月21日~1919年7月16日)は、明治時代に活躍した政治家で、日本で初めて「国会を創った男」として知られています。自由民権運動のリーダーで、「板垣死すとも自由は死せず」という有名な言葉でも知られています。

板垣は高知県(昔の土佐藩)で生まれ、若いころは剣術などの武術に励んでいました。その後、幕府を倒すための運動に参加し、戊辰戦争では新しい政府側の指揮官として活躍しました。

明治時代になると、「国民の意見を政治に反映させるために、みんなが選ぶ国会をつくるべきだ!」と訴えました。1874年には「民撰議院設立建白書」という提案書を政府に提出し、自由党という政党をつくって活動しました。自由民権運動の中で彼が襲撃されそうになったときに言った「板垣死すとも自由は死せず」という言葉は、自由を守るための強い意志を表しています。

政治家としては、国会の設立や新しい憲法の発表(1889年の大日本帝国憲法)に尽力しました。また、国を守るための軍隊の設立にも関わり、国の基盤を作る仕事をたくさん行いました。

引退後は、視覚障害者や戦争でけがをした人たちを支える活動を行い、社会のために尽くしました。板垣は1919年に83歳で亡くなりましたが、彼の努力のおかげで今の日本の政治の仕組みがつくられたと言えます。

板垣は人間らしい一面も持っていて、子どものころには「神様のお守りを捨てても罰が当たるのか?」と試したり、ゆで卵や鮎の塩焼きが好きだったというエピソードもあります。

板垣退助は、日本の民主主義や国会の基礎をつくった重要な人物で、その影響は今も私たちの生活に息づいています。

参考:板垣退助ってどんな人?100円札に選ばれた理由や歴史を解説

旧札(旧50円札)の人物は誰?

旧札の50円札は、下記の1種類のみで、肖像画として描かれているのは「髙橋是清」です。

高橋是清 50円札

高橋是清 五〇円札

髙橋是清って何をした人?

髙橋是清(たかはしこれきよ、1854年~1936年)は、日本の近代財政を支えた重要な政治家であり財政家です。彼は波乱に満ちた人生を送りながらも、日本経済の発展に大きな貢献をしました。

1854年に江戸(現在の東京)で生まれた髙橋是清は、13歳でアメリカに留学しましたが、騙されて奴隷として働かされるという過酷な経験をしました。それでも帰国後は文部省に入り、その後、日本銀行に転職し、財政の専門家としての道を歩み始めました。

彼の名を特に有名にしたのは、日露戦争中の戦費調達です。当時、日本の信用は低く、巨額の資金を集めるのが難しい状況でした。しかし髙橋は、日本国債を海外で販売することで1億500万ポンド(現在の約9億円相当)を調達することに成功しました。この功績は、日本が戦争を続けるための大きな支えとなり、彼が「日本のケインズ」と呼ばれる理由の一つとなっています。

また、1930年代の昭和恐慌の際には、大蔵大臣として大胆な財政政策を実施しました。公共事業を拡大し、経済を活性化させた彼の政策のおかげで、日本は他国よりも早く経済危機から立ち直ることができました。そのリーダーシップは多くの総理大臣から信頼され、彼は内閣総理大臣を1度、大蔵大臣を7回も務めています。

髙橋是清の生涯は順風満帆ではありませんでした。1936年、二・二六事件に巻き込まれ、陸軍の青年将校たちにより暗殺されるという悲劇的な最期を迎えました。しかし、その業績は今も高く評価されています。日露戦争の戦費調達から昭和恐慌の克服まで、彼の知恵と行動力は日本経済を支える大きな柱となり、現在の日本の財政にも影響を与えています。

参考:【10万円超え⁉】高橋是清50円札の価値を解説します!

旧札(旧1円札)の人物は誰?

旧札の1円札は、下記の4種類。肖像画として描かれている人物は「二宮尊徳」と「武内宿祢」、「大黒天様」の3人です。

二宮1円札

日本銀行券A号1円

改正不換紙幣1円

中央武内1円

改造一円券

漢数字1円

旧一円券

大黒1円

二宮尊徳って何をした人?

二宮尊徳(にのみや そんとく)は、江戸時代の終わりごろに活躍した人物で、農村を助けるための活動をたくさん行ったことで知られています。本名は二宮金次郎(きんじろう)で、特に「薪を背負いながら本を読む姿」で有名です。

尊徳は、現在の神奈川県小田原市で生まれました。子どもの頃は裕福な家で育ちましたが、自然災害や不幸が重なり、家が貧しくなり、一家がバラバラになってしまいました。それでも尊徳は一生懸命働き、自分で土地を復興させる方法を学びました。この経験をもとに、たくさんの農村で荒れた土地を元に戻し、600以上の村を救ったと言われています。

尊徳の考え方は「報徳思想(ほうとくしそう)」と呼ばれています。この思想は「まごころを持つこと」「一生懸命働くこと」「無理のない生活をすること」「みんなで助け合うこと」という4つのルールを大切にしています。尊徳は、これを実行すれば村や町が豊かになり、みんなが幸せに暮らせると考えました。

彼の活動は、後の時代にも影響を与え、信用組合(お金を出し合って助け合う仕組み)を作るきっかけにもなりました。明治時代以降、多くの経営者や政治家にも尊徳の考えが参考にされました。

尊徳といえば「薪を背負いながら本を読む姿」が有名ですが、実はこの姿は彼が生きている時に作られたものではありません。このイメージは本や教科書を通じて広まり、小学校の像としてたくさんの場所に建てられました。ただ、本を読みながら道を歩かないように交通の安全などの理由で1970年代以降、撤去されることも増えました。

尊徳は1856年、70歳で亡くなるまで、多くの人々を助け続けました。彼の考え方や行いは、今でも「まじめに働くこと」や「みんなで助け合うことの大切さ」を教えてくれます。

参考:最後の一円札の価値はどのくらい?二宮尊徳はなにものなのか

武内宿祢って何をした人?

武内宿祢(たけのうちのすくね)は、昔の日本で活躍したとされる伝説の人物です。景行天皇(けいこうてんのう)から仁徳天皇(にんとくてんのう)まで、5人の天皇に仕えた忠実な家来として有名です。彼はとても忠義深く、長い間日本のために働いたことで、歴史や神話に登場します。

武内宿祢は、昔の皇族の血筋を持つ高貴な家に生まれました。生まれた年は景行天皇14年(今から1700年以上前と言われています)。彼は、天皇のために戦いや政治で活躍しました。たとえば、神功皇后(じんぐうこうごう)という天皇の奥さんが新羅(しらぎ、今の韓国の一部)に遠征したとき、武内宿祢がその手助けをしたとされています。また、天皇に反乱を起こした人たちを倒して国を守ったとも伝えられています。

面白いことに、彼は伝説によると360歳以上まで生きたと言われています。本当にそうだったかどうかはわかりませんが、それだけ長く活躍した人物として語られているのです。

武内宿祢は、忠実で優れた家来の象徴として、日本の歴史書や神話の中で大切な存在です。また、彼の子孫とされる人々が後に強い力を持つ豪族になったとも言われています。

現在、武内宿祢は神様として多くの神社で祀られています。佐賀県にある武雄神社(たけおじんじゃ)は特に有名です。

参考:武内宿禰ってなにもの?紙幣の肖像で最も長く使われた人物について解説

大黒天様って何をした人?

大黒天(だいこくてん)は、日本で広く親しまれている七福神の一人で、商売繁盛や農業の神様として信仰されています。明治18年(1885年)に発行された1円札に大黒天様の姿が描かれたのは、当時の不況を乗り越え、経済が繁栄するようにという願いが込められていたためです。

大黒天は、左肩に財宝の袋を背負い、右手に「打ち出の小槌(こづち)」を持ち、米俵の上に座る姿で描かれています。この姿は富や豊かさを象徴しています。また、彼の笑顔は、人々に安心感を与え、繁栄をもたらす神様としてのイメージを強調しています。

もともと大黒天はインドの破壊神としてのルーツを持っていますが、中国や日本に伝わる中で穏やかな神様として姿を変えました。日本では特に農業や家庭の台所の神様として信仰され、豊臣秀吉のような歴史的な人物にも守り神として大切にされていました。

現在でも、大黒天は商売繁盛や家庭の繁栄を願う人々にとって大切な存在であり、縁日である「子日(ねのひ)」にお参りすると特にご利益があるとされています。

参考:大黒一円札ってなに?日本銀行初の紙幣について解説

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