元禄小判金を作った人は誰? インフレ原因の悪貨

江戸時代の経済を支えた貨幣のひとつに「元禄小判金」があります。
この金貨は元禄8年から宝永7年(1695年〜1710年)にかけて鋳造され、商取引の活性化と幕府財政の安定を目的として流通しました。
では、この元禄小判金を実際に鋳造し、発行を主導した人物は誰だったのでしょうか?
その背景には、幕府の財政政策と密接に関わりのある人物の存在がみえてきます。
荻原重秀という人物
元禄小判の発行は将軍の命令ではなく、荻原重秀(1658年–1713年)という人物によって作られました。
荻原重秀は当時の勘定吟味役や勘定奉行を務め、財政の管理に携わった人物です。
項目 | 内容 |
---|---|
生没年 | 1658年~1713年 |
身分 | 旗本(下級武士)、のちに勘定奉行 |
主な役職 | 勘定奉行、佐渡奉行など |
通称 | 荻原五左衛門、荻原彦次郎 |
官位 | 従五位下・近江守 |
重秀は佐渡金山の再生や、破損が増えた慶長小判金の改鋳といった政策を打ち出しました。
しかし、ことごとく失敗に終わってしまい民衆の信頼を失う結果に終わっています。
そのため、幕府内でも重秀の勘定奉行退任を求める声があがるようになりました。
当時の将軍徳川家宣もそれに応じざるを得ず、重秀は晩年には役職からおろされています。
経歴
簡単な経歴は下記のとおりです。
- 1658年
- 江戸で生まれる(父は旗本・荻原種重)
- 1674年
- 勘定方に登用(財政事務官としてのキャリア開始)
- 1695年
- 元禄金銀の改鋳を主導(幕府財政政策の転機)
- 1696年
- 勘定奉行に就任(財政責任者として最高位)
- 1712年
- 勘定奉行を罷免(政治的失脚)
- 1713年
- 死去(病死または自害説あり、真相不明)
元禄小判金はどんなねらいで作られた?

元禄小判金の1代前にあたる慶長小判金は、90年以上も使われたために摩耗が進んでいました。
欠けてしまったり、削れてしまったことで金の量が減ってしまっていたのです。
本来であれば、金が減ってしまった小判に金を継ぎ足すといった対処法もありました。
しかし、この時期は金の産出量減少と人口増加が重なったために深刻な貨幣不足にも陥っていたのです。
そこで重秀が打ち出した改鋳案は、金の含有量を大きく減らして製造枚数を増やすというものでした。
元禄の貨幣改鋳(1695年)です。
1695年
【 元禄の改鋳 】
金貨・銀貨の質を落として貨幣の数量を増やし、幕府の財政難を切りぬけようとしましたが、物価が上がって人々を苦しめる結果となりました。
さらに、慶長小判金と交換で元禄小判金を渡すことにより、金品位の高い慶長小判金を回収する目論見も含まれています。
現代でいえば「貨幣のデフレ防止策」や「金融緩和」に近い政策です。
こうして生まれた元禄小判金は、ねらい通り製造枚数を増やせたものの、インフレという新たな問題を引き起こします。
慶長小判金の回収も上手く進まず、財政の改善には貢献できませんでした。
失脚と晩年
「悪貨は良貨を駆逐する」という言葉をご存じですか?
これは、イギリスの経済学者であるトーマス・グレシャムが提唱した「グレシャムの法則」を一言でまとめた言葉です。
同じ額面でありながら素材が高い貨幣と安い貨幣の2種類があったとき、人は素材が高い貨幣を貯めこむようになります。
その結果、市場には安価な貨幣ばかりが出回るようになることを指した理論です。
元禄小判金でも同様の現象が発生し、金品位の高い慶長小判金を商人が隠し持ち、市場には元禄小判金だけが出回るようになりました。
商人は慶長小判金と元禄小判金の交換にも応じないため、慶長小判金の回収も上手くいかなかったというわけです。
財政改革を果たした一方で、新井白石(家宣の側近)からは「貨幣改鋳は欺瞞的」「賄賂受領」などの強い非難を受け、1712年に勘定奉行を罷免されました。
TEL:☎03-6709-1306(営業時間 11:00~18:00)
〒171-0022 東京都豊島区南池袋3丁目18−35 OKビル 501