【簡単】和同開珎って結局なに?わかりやすく説明します
日本最古の貨幣「和同開珎」。
名前は聞いたことがあるけれど、具体的には何なのか、どんな歴史があるのか、興味を持って調べている方も多いのではないでしょうか。
この記事では、和同開珎の基本情報から、いつどこで作られたのか、現代における価値までをわかりやすく解説します。
-
父親の影響で、幼少のころから古銭(特に100円銀貨や10万円金貨)に慣れ親しむ
2012年、慶應大学理工学部在学中に創業し、古銭の買取・販売を始める。
2022年、日本唯一の古銭鑑定機関「貨幣商協同組合」に加盟
現在は古銭鑑定士として、テレビ等メディア出演多数
▶︎詳しいプロフィールはコチラ。
目次
和同開珎とは?日本最古の貨幣の歴史
和同開珎(わどうかいちん)は、日本で最初に作られたお金として知られています。
708年に作られ始め、当時の人々が物を売り買いするために使われました。和同開珎は、中国の唐という国のお金を参考にして作られたもので、経済や社会を発展させるために役立てられました。
和同開珎は、日本が国としての仕組みを作り始めた時期に発行された、歴史的に大切なお金です。
和同開珎の読み方と意味
実は和同開珎にはここにテキスト2つの読み方があることをご存知でしょうか。
「わどうかいちん」と「わどうかいほう」どちらも正しいとされていますが、近年では「わどうかいちん」の方が一般的に使われています。
では、なぜこのように異なる読み方が存在するのでしょうか?実は、この違いには時代背景や地域性が関係していると考えられています。
例えば、平安時代の文献には「かいちん」という表記が多く見られますが、後世になるにつれて「かいほう」という読みも増えました。これには、中国由来の貨幣文化と日本独自の読み方が影響した可能性があります。
「和同開珎」という名前そのものにも深い意味が込められています。
「和同」は、この貨幣が作られた和銅元年にちなんだもので、この年に採掘された国産の銅が使用されました。
「開珎」は、「新しいお金を広める」という意味を持ち、当時の政府が貨幣制度を日本全土に流通させようとした意図が感じられます。
和同開珎はいつ作られた?時代背景を解説
和同開珎は、708年(和銅元年)に作り始められました。このころ、日本は大きく変化する時期にありました。
中国の唐は当時、世界でもっとも発展していた国の一つです。日本にとっては「国作りを学べる先生」のような存在でした。
日本は、唐から法律や文化、都市の作り方など、さまざまなことを学びました。その中にはお金の仕組みも含まれていました。
日本では、ちょうど飛鳥時代から奈良時代に移るころで、国をしっかりまとめようとする動きが強くなっていました。
この時期、日本ではまだ物々交換が中心でした。そこで、唐のような「お金を使う仕組み」を取り入れれば、経済がもっと便利になると考えられたのです。
この年に銅が見つかったことも大きな出来事と言えます。理由は、見つかった和銅を使って、初めて日本のお金を作ることができたためです。
和同開珎を作ったのは誰?歴代天皇との関係
和同開珎は、元明天皇(げんめいてんのう)の時代に作られました。日本は飛鳥時代から奈良時代へ移り変わる時期で、国をまとめるために新しい仕組みが必要でした。
この仕組み作りのために、和同開珎は作られたのです。
お金を作ることで物の値段を統一できます。そして、「このお金は天皇が作ったもの」という共通の認識が生まれます。
和同開珎によって、地方の人たちにも「この国の一員である」という意識が広がりました。
元明天皇の後、聖武天皇(しょうむてんのう)なども和同開珎を元にして新しいお金を作りました。「万年通宝(まんねんつうほう)」や「神功開宝(じんぐうかいほう)」などのお金です。
これらのお金も国をまとめるために作られ、和同開珎の役割を引き継ぎました。和同開珎は、ただのお金ではなく、国づくりの大事なきっかけとなっていたのです。
和同開珎と富本銭の違い
和同開珎の前には、「富本銭(ふほんせん)」というお金が作られていました。飛鳥時代の683年頃に発行されたと言われています。
※出典:Wikipedia
流通目的というよりは、天武天皇が権力を示すために作った政治的な意味合いが強いものでした。主に寺院や特定の場所で使われたと考えられています。
日本で初めて作られたお金とされますが、流通目的ではないため、一般的には和同開珎が初めてのお金とされています。
和同開珎と富本銭には、素材にも違いがあります。
富本銭は銅や青銅を素材とし、表面には「富本」という文字が刻まれています。形状は丸形ですが、デザインはシンプルで、貨幣としての機能よりも象徴性が重視されました。
和同開珎は銅を主な素材とし、「和同開珎」という4文字が刻まれています。デザインも中国の唐の貨幣を参考にしており、世の中への流通を意識して作られています。
和同開珎と寛永通宝の違い
和同開珎と寛永通宝は、日本の歴史を代表する古銭ですが、作られた時代や目的、使われ方には大きな違いがあります。
和同開珎は奈良時代に鋳造され、日本で初めて流通を目指した貨幣です。寛永通宝は江戸時代の寛永年間(1624年~1644年)に鋳造され、物々交換からお金を使う経済へと切り替えるために作られました。
和同開珎が作られた当時の日本は農村経済が中心で、米や物品による物々交換が根付いていました。
そのため、貨幣を流通させる仕組みが十分ではありませんでした。結果として、和同開珎が全国で広く使われず、次第にお金の使用は少なくなっていきました。
中世には、お金の代わりに米や布が税として納められるようになり、貨幣経済は一旦停滞したのです。
江戸時代に入ると、江戸幕府が全国を統一し、全国的に安定した政治と経済を築きました。この中で、貨幣経済を再び導入する必要が生じました。
そこで鋳造されたのが、寛永通宝です。江戸時代には、物々交換から脱却し、お金を使った取引が全国で行われるようになり、貨幣が経済の中心的な存在となりました。
寛永通宝は、江戸時代の安定した経済を支えるための重要な役割を果たしていたのです。
つまり、2つの古銭は以下のように表すことができます。
- 和同開珎=日本が初めて貨幣を使うことに挑戦した時代を象徴
- 寛永通宝=全国的な安定と統一のもとで貨幣経済が本格的に根付いた時代を象徴
2つの古銭から、日本がどのように経済を発展させてきたのか、その流れを感じることができるでしょう。
参考:寛永通宝って価値がある?
和同開珎はどこで作られた?
和同開珎を作る作業は、埼玉県秩父市の近くで行われたとされています。
ここでは、和同開珎に所縁の深い場所についてみていきましょう。
秩父で発見された和同開珎の謎
和同開珎は、埼玉県秩父地域で採れた銅を使って作られました。
この地域には「和銅鉱山」と呼ばれる鉱山があり、708年に銅が見つかりました。この出来事がきっかけで、その年は「和銅元年」と名付けられました。
この銅を使って和同開珎が作られ、日本で初めて本格的にお金を流通させる取り組みが始まったのです。
秩父での銅の発見は、和同開珎が生まれる大きなきっかけでした。
和同開珎ゆかりの神社とは
和同開珎に関わりの深い神社として有名なのが、埼玉県秩父市にある「和銅黒谷銅山神社」です。
この神社は、和銅鉱山での銅の発見を記念して建てられたと言われています。境内には和同開珎の大きな模型が飾られていて、歴史に触れることができます。
この地域には「和銅遺跡」もあり、当時の銅の採掘やお金作りの様子を知ることができる観光地として人気です。
和同開珎の価値と特徴
和同開珎は、日本最古の貨幣として歴史的な価値やコレクターの人気が非常に高いものです。また、さまざまな種類があり、鋳造された時期や保存状態によって価値が変わります。
たとえば、傷が少なく文字が鮮明なものは高額で取引されることが多いです。数万円から数十万円の値段がつくこともあります。
文字が摩耗しているものや損傷が大きいものは、価格が大きく下がることが多いです。
和同開珎には表記やデザインに違いがあるため、それぞれの特徴を詳しく調べることが大切です。
以下の参考記事では、具体的な価格帯や種類の違いがわかりやすく解説されています。もし価値を詳しく知りたいという方は、そちらもぜひチェックしてみてください。
いつまで使われた?和同開珎の流通期間
和同開珎は708年に作られましたが、実際に広く使われた期間は非常に短かったとされています。
その背景には、以下のようないくつかの理由があります。
- 物々交換の習慣からの脱却が難しかった
- 和同開珎の質や価値の問題
- 政府の統率力の不足
- 平安時代に貨幣利用が途絶える
物々交換の習慣からの脱却が難しかった
当時の日本では、農村を中心に米や布を使った物々交換が深く根付いていました。
農業が経済の中心だったため、人々にとって物々交換の方が自然で、貨幣を使う理由があまりなかったのです。
貨幣を使うことによる利便性や価値がまだ十分に理解されていなかったとも考えられます。
和同開珎の質や価値の問題
和同開珎は銅を主な素材として作られましたが、その価値は必ずしも安定していませんでした。
たとえば、貨幣自体の製造に使われる銅の質が必ずしも均一ではなく、貨幣としての信頼性に欠けた部分がありました。
結果、人々は貨幣よりも実際に使える物品の方を重視しました。
政府の統率力の不足
奈良時代の政府は、唐の制度を模倣して貨幣制度を取り入れました。しかし、それを全国に浸透させるための経済基盤や物流の仕組みが整っていませんでした。
貨幣制度を全国的に広めるためには、全国的な統一的ルールや流通ルートが必要でしたが、当時の日本ではそれが十分ではありませんでした。
平安時代に貨幣利用が途絶える
奈良時代の終わり頃になると、貨幣の鋳造は停止され、平安時代に入ると貨幣経済自体がほとんど行われなくなりました。
税として納められる米や物品が価値交換の中心となり、和同開珎を含む古代貨幣の使用は自然と消えていきました。
和同開珎は全国的に流通することはありませんでしたが、日本で貨幣制度を取り入れる最初の試みとして大きな意味があります。江戸時代に再び貨幣制度が復活するまで、日本の経済における貨幣の重要性を示す一歩となりました。
日本最古の貨幣「和同開珎」の魅力
和同開珎は、日本で最初に作られたお金で、その歴史的な価値が人気の貨幣です。そのため、日本の歴史に触れられる貴重な宝物として手に入れたいと考えている人も多いです。
どの地域で見つかったかや、どのくらいきれいな状態で残っているかによって、価値が大きく変わります。
もしお手元に和同開珎があるという方は、どのくらいの価値があるのか古銭のプロに問い合わせてみませんか。アンティーリンクでは専門家の目で、しっかりと価値を査定させていただきます。