

日米和親条約締結により安政6年(1859年)に開港され、外国人大使の小判入手が目的の洋銀から一分銀への両替要求が急増し、貿易港周囲における市中の一分銀が払底したため、幕府に対し一分銀の増鋳が要求されました。
しかし、一分銀の払底は解消されず、また、天保一分銀の銀品位は99%程度と高く、同量の90%程度の洋銀と交換したのでは幕府が損失を被るため、ハリスは、せめて洋銀を一分銀に改鋳して発行するよう提案し幕府もこれを受け入れ、同年8月13日(1859年9月9日)より洋銀と同品位の一分銀が通用開始されることになったただし、小判流出防止に対して何の効果をもたらすものではなかった。
このとき発行されたのが安政一分銀(あんせいいちぶぎん)であり、古一分銀に対し新一分銀(しんいちぶぎん)とも呼ばれています。