寛永通宝の鉄銭とは?登場時期、裏面の文字、分類ルールまで徹底解説

日本初の全国共通貨幣として有名な寛永通宝、その歴史は銅を材料とした鋳造で始まりました。
時代を経て加工のバリエーションが増える一方で、鉄を材料とするものが登場します。

今回の主役はその鉄銭

登場時期や分類のルール、材料変更に至った経緯を解説します。


この記事で鉄銭について分かる内容はこちらです。

  • 登場した時期
  • 裏面に刻まれた文字の種類
  • 分類する5つのルール
  • 導入された理由

新寛永の時代に登場した寛永通宝の新スタイル「鉄銭」

まずは、それぞれの時代の寛永通宝が秘める歴史を紐解きましょう。

古寛永は寛永通宝の初期シリーズ

後世に残っている古寛永は、材料が銅のものばかりで、鋳造された期間は1636年~1659年です。

古寛永に選別してみた!

古寛永に選別してみた!

当時は貨幣の鋳造を幕府が直轄で管理できる土壌が整っておらず、各地の主要な大名に鋳造を許可することで間に合わせていました。
そのため、寛永通宝の四文字(銭文)の書体にご当地性があります。

古寛永 水戸銭

古寛永 水戸銭

古寛永 仙台銭

古寛永 仙台銭

書体の差異だけなら些細なことかもしれませんが、鋳造所による違いはそれだけに留まりません。

厚み・大きさ・重さにもバラつきがあり、文字の歪みの有無やかすれ具合もさまざま。

管理が行き届いていない体制に加えて、技術不足も顕著だったので、同じ価値で取引されるべきものが均一の質ではありませんでした。
鋳造所による個性は、後の時代の我々から見れば興味深いポイントですが、お金として使用していた人々にとっては困りものでした。

幕府が直轄の新施設で手掛けた新寛永

1668年以降に鋳造されたものが新寛永で、鉄銭もこの時期に登場します。

新寛永に選別してみた!

新寛永に選別してみた!

古寛永に見られた深刻な品質のバラつきを改善するべく、幕府が本格的なテコ入れを開始します。

江戸の亀戸村で新たに構えた直轄の鋳造所を皮切りに、幕府主導の鋳造所を多数新設。
徹底した品質管理、人・もの・技術の集約、まさに幕府肝入りの一大プロジェクトでした。
直轄への移行が功を奏し、品質面で新寛永は目覚ましい進歩を遂げます。

厚み・大きさ・重さは均一、書体も安定、個体による実質的な価値の差は限りなく少なくなりました。

14種類の裏面の文字と5つの分類ルールで新寛永を見分けよう

寛永通宝の鉄銭は新寛永の時期に登場するので、まずは新寛永の見分け方を覚えましょう。
14種類の裏面の文字5つの分類のルールを理解するだけでも、新寛永を見極める助けになります。

全14種類!裏面の文字で寛永通宝の鉄銭がいつ登場したか一目瞭然

裏面の文字で、どの年代の寛永通宝の鉄銭かが分かります。

裏面の文字 鋳造所 名称 鋳造開始時期
武蔵国江戸亀戸村 亀戸銭 1668年~1768年
武蔵国江戸深川十万坪 十万坪銭 1726年~1739年
武蔵国江戸本所小梅 小梅銭 1737~1739年
武蔵国江戸小名木川代官堀 小名木川銭 1740年
陸奥国仙台石の巻 石の巻銭 1728年
陸奥国仙台石の巻 石の巻銭 1739年~1838年
常陸国久慈郡太田木崎 太田銭 1768年~1774年
常陸国久慈郡太田木崎 太田銭 1774年
常陸国水戸 水戸銭 1844年
下野国安蘇郡足尾銅山 足尾銭 1741年
越後国佐渡郡相川 佐渡相川銭 1714年~1862年
摂津国大阪高津新地 高津銭 1741年
肥前国 長崎浦上淵掛り稲左京 長崎銭 1767年
肥前国長崎浜町築地 肥前国長崎馬込郡 ーノ瀬銭 1741年〜1743年

裏面の文字を確認するだけでも、これだけの情報が得られるのは助かりますね。

寛永通宝は裏面で場所と年代が分かる!

寛永通宝は裏面で場所と年代が分かる!

「背」面に文字が「無」い無背の場合もあるため、万能の技ではありませんが、逆に無背で候補を絞ることも可能です。

職人の遊び心?バリエーション豊富な裏面の文字

同じ裏面の文字でも微妙に違うケースがあるので、寛永通宝の最高傑作と名高い島屋文を例に挙げて解説します。

島屋文 ※正字文
島屋文※正字文
島屋文 ※正字入文
島屋文※正字入文
島屋文※退点文
島屋文 ※退点文

正字文は読んで字のごとく、点や画を省略・変更していないオーソドックスな背文。

下半分が「入」の形だと正字入文、上部の点が右に寄ると退点文となります。

これらはエラーコインという訳ではなく、鋳造した職人がわざと変化をつけたもの。
裏面のたった一文字に施された小さな変化、職人がどんな気分で鋳造したのか、思いを巡らせるのも一興ですね。

過去の記事で島屋文を詳しく取り上げているので、こちらも併せてご覧ください。

新寛永を分類する5つのルール

書籍やオークションサイトなどで頻繁に目にする分類表現もあるので覚えてみましょう。

銭径の大きさ

銭径の大きさを表現する言葉には、着眼点の異なる2種類があります。

1つ目は大様・中様・小様。
銭径(直径)の大きさに着目した分類方式です。

亀戸大様
亀戸大様 直径約26mm
亀戸小様
亀戸小様 直径約25mm

2つ目は大字・中字・小字。

こちらは、銭径の大きさに比例してサイズが変わる銭文に着目(文字の大きさに注目)した分類の用語です。

白目小字
白目小字
白目中字
白目中字
押上小字
押上小字
押上大字
押上大字

ポイントは種類ごとに確認することで、たとえばとある種類の中字が、別の種類の大字よりも大きいということもあります。
微細な違いなので、見分ける判断材料としては難易度が高めです。

穿(銭中央の穴)の広さ

こちらは銭貨の中央に空いた穴の大きさで分類するパターンです。

狭穿
狭穿
広穿
広穿

穴の大きさで分類する広穿・狭穿は並べて比較すると分かりやすいですね。

銭文の配置

銭文には、それぞれに正しいとされる位置があり、どの文字が上よりか・下よりかで呼び方が変わります。
正しい位置より上なら「昂」を用いて昂通下なら「降」を用いて降宝などと称します。

銭文の書体・置き方

細字・繊字は銭文の太さによる分類で、繊字は細字より細いもの。
銭文が縦に長いと長字と呼ばれ、それもまた別の分類に。

これらに加えて、銭文の置き方を一捻りしているケースもあります。

左に傾いていれば「仰」右に傾いていれば「俯」を使用して、仰宝や俯永と命名します。

手変わり

手変わりを別の言葉に置き換えるなら、アレンジが妥当でしょう。
同じ鋳造所で同じ時期に鋳造されたものでも、手変わりのさじ加減によって、風体が異なる場合が多々あります。

虎の尾寛
虎の尾寛

虎の尾寛は、末尾のハネが上へ大きく伸びながらクネクネしており、虎の尻尾のよう。

異永
異永
通常の永
通常の永

異永は3画が左上がり、4画が右上がりで、ひしゃげたような形になっています。

新寛永を分類する5つのルールを紹介してきましたが、お察しのとおり、解説したのはほんの一部。
300年以上通用していたこともあり、分類をまとめるだけで一冊の本ができあがるほど、基準は無数に存在します。

それらに気付けるようになると、寛永通宝の表情が豊かに見えてくるでしょう。
ぜひ、ご自身でお気に入りの1枚を見つけてください。

なぜ銅を鉄に?材料変更の理由と評判

新寛永の登場を境に、世に出始める鉄銭。
材料変更の背景にあった事情と、その評判を解説します。

銭ごとに見る材料変更

裏面の文字の紹介で名前が登場した銭の材料変更の履歴を先ずは確認しましょう。

名称 鋳造開始時期 材料 裏面の文字
亀戸銭 1668年~1737年
1765年
1768年 銅・鉄
十万坪銭 1726年~1736年
1739年
小梅銭 1737年
1739年
小名木川銭 1740年
石の巻銭 1728年
1739年~1838年
太田銭 1768年
1774年 久・二
水戸銭 1844年
足尾銭 1741年
佐渡相川銭 1714年~1735年
1740年 銅・鉄
1741年~1781年
1862年
高津銭 1741年
長崎銭 1767年
一ノ瀬銭 1741年 銅・鉄 一・十
1743年 一・十

新寛永の変遷をパターンに分けて解説します。

①一貫して銅を使用
  • 足尾銭
  • 高津銭
  • 長崎銭

古寛永からの流れを引き継ぎ、一貫して銅を使用しています。

②一貫して鉄を使用
  • 小名木川銭
  • 太田銭
  • 水戸銭

逆に最初から鉄を使用しているパターン。
取り上げている銭のなかでは少数派です。

③銅を使用していたものを鉄に変更
  • 亀戸銭
  • 十万坪銭
  • 小梅銭
  • 石の巻銭
  • 佐渡相川銭
  • 一ノ瀬銭

途中で材料を変更している場合、銅が先発で鉄が後発、という流れが共通しています。
注目したいのは石の巻銭。
材料の変更に合わせて裏面の文字を変更し、銅と鉄で銭を区別する目的がありそうですね。

④銅と鉄を同時期に併用
  • 亀戸銭
  • 佐渡相川銭
  • 一ノ瀬銭

最初は銅を使用していた点を踏まえれば、鉄への完全移行は避けたい、という意思が透けてきます。

⑤銅のみに戻そうとする
  • 佐渡相川銭

銅のみで鋳造を開始。
鉄との併用を許容した後、一度は銅のみの体制に戻ります。
しかしながら、最終的には鉄に一本化されています。

③~⑤が分かりやすいですが、どちらかといえば銅を使いたい、という気持ちが伺えますね。

増産のペースに追いつかない銅資源の供給

材料変更の原因は、銅資源の枯渇です。
幕府が貨幣統一を成し遂げて以降、高まり続ける需要に銅資源の供給が追い付かず、代替案として鉄銭の鋳造を始めました。

世間のリアクションを受けて、試行錯誤された鉄銭

不安定になりつつあった銭の供給を落ち着かせるために導入された鉄銭でしたが、世間からの評判は散々なものでした。
粗悪な品質が悪評を呼び、鍋銭(なべせん)という不名誉な別称まで生まれる始末。

鉄の一文銭を四文のコストで鋳造する赤字覚悟の政策でしたが、状況打開の一手とはなりませんでした。
その後、真鍮四文銭の登場で事態は一度収束に向かいます。

銭の供給が落ち着きを取り戻した1860年、幕府はすっかり世間に浸透した四文銭でリベンジに臨みます。
それまでの経験を糧に良質な鉄四文銭の普及を目指しました。

精錬された鉄の使用をアピールポイントとして打ち出しましたが、結果は惨敗。
発行益がマイナスのまま鋳造は打ち切られ、従来より減量した銅四文銭「文久永宝」の鋳造に切り替えました。

鉄銭は寛永通宝の苦しい時代を今に伝える古銭

銅の資源不足を解決するべく誕生した鉄銭は、世間からの非難に晒されながらも日本の経済を支えた貨幣でした。
不遇な生い立ちを抱える一方で、鋳造技術の進歩が著しい時代に作られたので、銭文の1画をとっても個性が光ります。

以上、当スタッフブログでは、古銭の世界を覗きたくなる話題をお届けしています。
更新の折には、そちらもぜひご覧ください。

寛永通宝の鉄銭もアンティーリンクの無料LINE査定

分類が無数にある寛永通宝の鉄銭、自力で見分けるのは至難の業です。
アンティーリンクの無料LINE査定は、友達登録を済ませたら、写真を送って結果を待つだけ!

友だち追加

必要に応じて、そのまま郵送買取もご利用いただけます。

併せてご活用ください。