江戸時代の銀貨は切ったり量ったりして使う?当時の複雑な貨幣制度とは?
しかもこの銀貨、切って使ったりお金の価値が重さで決まったりと少し特殊で金貨・銅銭とは使い方が異なるのです。
ここでは銀貨を中心に江戸時代のお金について解説します。
目次
江戸時代の銀貨は切ったり量ったり?
江戸時代に使用されていた銀貨は秤量貨幣(ひょうりょうかへい)といい、現在の貨幣のように決まった額面はありませんでした。丁銀の重さを銀の価値で計算し、支払いをしていたのです。
当時は「丁銀(ちょうぎん)」という海鼠(なまこ)型の銀貨を使用しており、必要に応じて切り取って使用していました。
海鼠(なまこ)型の丁銀は、同じ形や重さに成形することが難しかったため、重さは30〜50匁、大きさもまちまちであったためです。
厚みも一定ではなかったため、「たがね」という金属を切る道具で切り取って使用されていたようで、たがねで切り取られたと思われる丁銀も発掘されています。
▲元文丁銀
しかし、毎回たがねで必要な分を切り取るのはかなりの手間でした。
のちに豆板銀とよばれる豆粒のような銀貨が登場し、丁銀の不足分をこの豆板銀で補うようになり、丁銀を切って遣うのが禁止になった時期もあったようです。
江戸時代後期に登場した銀貨
金貨・銅銭と違ってわざわざ重さを量って必要な分を支払うのが手間だった銀貨ですが、江戸時代後期である1800年代には金貨・銅銭と同じように額面が決まっている「一分銀」「一朱銀」が登場します。
これらの価値はそれぞれ「一分銀」が金貨の1/4「一朱銀」がそのさらに1/4とされています。
江戸時代の記録では金貨1枚でかけそば400杯と言われていますから、一分銀で100杯、一朱銀で25杯のかけそばが食べられるのです。
▲天保一分銀
▲嘉永一朱銀
「銀座」は今でいう造幣局の名残
東京銀座といえば、高級ブランドが立ち並ぶ大人の街というイメージが定着していますが、この銀座の由来が銀貨であることはご存じですか?
江戸時代の貨幣は金貨・銀貨・銅銭それぞれに作る場所が異なっていました。
当時、銀貨を作る機関のことを「銀座」と呼んでおり、それがそのまま地名になったのが銀座の由来です。
当然金貨を作る「金座」や銅銭を作る「銭座」もあり、金座は地名としては残っていませんが、現在の日本銀行本店が金座の跡地と言われています。
銀貨の作り方
銀の加工は古代から行われていました。
鉛の鉱石から灰吹き法という手法を用いて銀を抽出し、布を張った「湯床」という装置に熔けた銀を流しこんで丁銀を作り出します。
江戸時代の後期にはだんだんと銀の比率が下がっていき、「色揚げ」という酸で洗って表面の他の金属を洗い落して銀だけを残す手法が取られていたようです。
ところで、金貨や銅銭は額面が決められていて、しっかりと成形されているのに、なぜ銀貨は形も重さもまちまちな丁銀で重さで価値を決めていたのでしょうか?
品位こそ幕府によって統一されていたものの、無造作なつくりで流通した銀貨ですが、金貨や銅銭を見てわかるように加工技術がないわけではありません。
これは下手に成形しないことで、あえて真贋のよりどころを求めていたとされています。
江戸時代のお金のしくみは複雑
1600年、関ヶ原の戦いで勝利し天下を統一した徳川家康は数多くの政策を進めて江戸の町を発展させました。その一つが貨幣制度の統一です。
貨幣の大きさや金銀の含有率、製造法を整備して慶長金銀を発行します。
さらに1636年には3代目将軍・家光が銅銭(寛永通宝)を発行を開始し、三貨制を確立させました。
この三貨制というのがかなり複雑で、金貨・銀貨・銅銭それぞれに単位や数え方が異なります。
特に金貨・銅銭は1枚の額面が決まっている計数貨幣であるのに対し、銀貨だけは重さで価値が決まる「秤量貨幣(ひょうりょうかへい)」であり、取引のたびに銀貨の重さを秤で計量する必要がありました。
さらに現代社会の為替取引のように、毎日金・銀貨の交換割合も変動していたというので大変です。
江戸時代のお金の単位
江戸時代のお金は金・銀・銭それぞれ単位が違います。
貨幣 | 単位 |
金貨 | 両・分・朱 |
銀貨 | 貫・匁・分・厘・毛 |
銭貨 | 貫・文 |
銀貨の単位に用いられる貫・匁(もんめ)は重量の単位そのもの(1匁=約3.75g)です。
丁銀と言われる海鼠(なまこ)型のものや豆板銀と言われる粒型の銀貨の重さを計って支払いを行っていました。
江戸末期の日記には複雑な支払いの記録が残っています。
(脇田修・中川すがね編『幕末維新大阪町人記録』清文堂出版、1994年、6頁より現代語訳)。
(元治元(1864)年2月5日)
堀江の芝居に行く。昼過ぎから雨。芝居小屋で2間(約3.6m)の座席を確保。座席料、敷物代、茶菓子代、5人分の昼飯代、合わせて金1歩2朱と銭2貫700文が請求され、これに金3歩1朱を支払って銭100文のお釣りを受け取った。
複数の単位が混在していて非常に複雑なうえ、日々変動するレートに合わせて計算をしなくてはなりません。
当時のお金の単位は金貨が「1両=4歩=16朱」銅銭が「1貫=4000文」さらに「金貨1両=銀貨60匁=銅銭4貫(4000文)」とそれぞれの貨幣を両替にも複雑な必要でした。
しかし、当時の人々はこの計算を簡単に出来ていたというので驚きです。
身分や用途で貨幣の使い分けがされていた
とはいえ、当時の人々が日常的に3種全ての貨幣を使用していたわけではありません。
庶民の支払いのほとんどは銅銭が用いられ、金貨を見たこともない庶民も多くいたようです。金貨・銀貨での支払いは身分が高い武士や商人などに留まっていました。
最も価値の高い金貨の大判は日々の支払いで使うというよりも、贈り物や報酬のような贈答品として使用されていたようです。
墨で額面が描かれていますが、これは金座の当主しか書くことが出来ず、これが消えてしまうとお金としての価値がなくなってしまいます。
万が一かすれてしまったり消えかけてしまったら金座の当主のところへ持って行って、高い手数料を払って書き直してもらっていたようです。
東の金遣い、西の銀遣い
身分や用途での使い分けがされていた貨幣ですが、日本の東西でも金銀においても主に使用される貨幣に違いがありました。
これは金銀の産出量が東西で異なっていたことと、西日本では中国との貿易に銀を用いることが多かったからとされています。
当時の貨幣制度の特徴を表すものとして「東国の金遣い、西国の銀遣い」という言葉が残っています。
江戸時代のお金は今でも価値があるの?
江戸時代のお金は歴史的な観点から価値がつくものが多数あります。
大判・小判は当時も最も価値の高い貨幣であったため言わずもがなですが、特に慶長小判、宝永小判、正徳小判はその品位性や希少性から価値が高いとされています。
銀貨で高額が期待できるのは二朱銀です。
二朱銀は、流通期間がわずか22日、鋳造自体も4ヶ月で終了した希少性の高い銀貨ですので50万円ほどの価値がつく場合もあります。
もしも自宅で江戸時代のお金を見つけたら、大切に保管するか査定に出してみることをおすすめします。
コレクションする予定がない場合は、酸化が進んで価値が下がらないよう、なるべく早めに査定に出すか、硬貨専用ケースに入れて酸化を防ぐように保管するのがおすすめです。
アンティーリンクは、古銭や古紙幣の買取を行なっています。ご自宅で古い銀貨などが出てきたら、お気軽にご相談ください。