寛永通宝と和同開珎の違いは?富本銭や永楽通宝も3つの項目で比較!

和同開珎や寛永通宝、富本銭(ふほんせん)に永楽通宝…
歴史の授業で、誰しも一度は聞いたことがある貨幣の数々。

久しく耳にしていないと、細かい史実はうろ覚えになりがちですよね。

本記事ではタイトルにある4つの貨幣について、名称の意味・デザインの根源・通用期間の3つの項目で比較します。
日本経済を回った4つの貨幣をみなさんが思い出すキッカケになれば幸いです。


この記事で分かる事柄は以下の3つです。

  • 貨幣の名前に込められた意味
  • 4つの貨幣に共通する四角い穴のルーツ
  • それぞれの貨幣の通用期間にある歴史的な背景

読み方と言葉の意味から入る貨幣史

先ずは、それぞれの読み方と意味を見ていきましょう。

共通点のあるものや、読み方に諸説あるものがあるので、違いを比べていきます。

寛永通宝と永楽通宝のネーミングに見る共通点


寛永通宝

永楽通宝

寛永通宝と永楽通宝、双方のネーミングに関する共通点は2つ。

1つ目は、どちらにも「通宝」の2文字が刻まれている点。
この2文字には「世間に通用する宝」という意味があります。

2つ目に、どちらにも年号が入っています。

“寛永”江戸時代の3番目の年号で、期間は1624年2月30日~1644年12月16日。
寛永通宝は、650年に及ぶ貨幣発行能力の喪失を乗り越えて、再び発行された国産貨幣です。

年号とは書きましたが永楽通宝の“永楽”日本の年号ではありません。

これは中国の明王朝時代の年号で、期間は1403年から1424年。
第3代皇帝永楽帝の時代です。

政治不信と資源不足から、国内での貨幣発行が止まった日本。

国内発行の貨幣の代わりに重宝されたのが、中国の永楽通宝をはじめとした渡来銭でした。
国内・国外の違いはありますが、通用期間が隣接していることもあり、共通点が多いですね。

和同開珎の意味と読み方は諸説あり!皇朝十二銭と「開珎」の読み方

和同開珎
和銅元年(708年)に発行された和同開珎も、年号になぞらえているように見えますが、「」と「」で文字に微妙な違いがあります。

和同中国の古典に由来する言葉で協調や中庸という意味。
また、和同開珎は後の150年で発行される11種類と合わせて皇朝十二銭と呼ばれています。

年号を含むのは4種類承和昌宝・貞観永宝・寛平大宝・延喜通宝のみ。

寛永や永楽が採用されているため年号と結びつけたくはなりますが、わざわざ文字を変える理由はありません。
手本とされる開元通寶が、当時の唐のものであったことからも、中国の古典を由来とする説の方が納得できるように思います。

和同開珎

開珎」も「カイチン」とする説と「カイホウ」とする説があり、長い間議論が交わされてきました。

前者は「珎」が「珍」の異体字であるという立場をとるもので、正倉院に収められている文書にある「国家珎寶」を根拠としています。

カイホウ説をとり「珎」を「寶」の略字とした場合、元の字と略字を重ねて使用するのは不自然ですよね。
そのため、逆説的な「カイチン」説を補強する材料の1つといえるでしょう。

後者は前後の時代の銭に「寶」の字が度々刻まれている史実を踏まえ、「珎」を「寶」の略字と考えました。

「和同」を年号の「和銅」を簡略化した結果と捉え、「珎」も「寶」の略字とする主張です。
無数にある当時の文献の中に、「和同」を年号に使用した例はありません。

他方「珍」を「珎」とした事例は多数発見されたこともあり、近年は「カイチン」説が有力視されています。
新しく世に出る歴史書や教科書も「カイチン」とするものが多数であり、論争の決着は一応ついたようですね。

富本銭はより真っ直ぐな表現、その本質に近い意味とは?

富本銭(レプリカ)
富本銭(レプリカ)
中国の古典にルーツがありそうだったり、読み方について意見が分かれたりするものがある一方で、直球な2文字を刻んだ貨幣もあります。

それが富本銭(ふほんせん)です。

富本」は「国や民を富ませる本(もと)」という意味。
年号に透ける政治的な思想や、中国の古典から伺える海外の文化とは異なり、富の根幹を表す2文字は雰囲気に差があるように感じますね。

貨幣に刻まれた文字たちには、時の権力者たちの力の誇示から託す願いまで十人十色の思いが詰まっていました。
手のひらに乗る小さな1枚にも確かな重みのあるメッセージがあります。

四角い穴には理由あり!4つの貨幣すべてに共通するデザインの根源

次に4つに共通するデザイン、四角い穴について掘り下げましょう。
現代の貨幣の穴には、偽造防止と他の貨幣との識別の役割があるように、四角い穴にも明確な用途と理由がありました。

棒を通す四角い穴、文化を派生させる日本のお家芸?

四角い穴は棒を通して形を整えるために使われていたようです。

日本の貨幣でも最古参に位置する富本銭や、和同開珎中国の模倣だったため、そのままデザインが採用されたと考えられます。
日本人が、同じ用途で四角い穴を活用していたかは定かではありません。

永楽通宝はそもそも中国から入ってきた渡来銭なので、四角い穴は同じ理由で開いていたと判断してよいでしょう。

永楽通宝の次に発行された寛永通宝も流れは汲んでいますが、これに関しては文化を派生させる日本のお家芸を感じるエピソードがあります。
当時、一文の価値がある寛永通宝は100枚を紐で束ねていました。

寛永通宝(一文)百文緡

取引や運搬を効率化するために、四角い穴に紐を通したのです。

宛らクリスマスやハロウィンなどの海外文化を、逞しく国内に吸収して商売チャンスを広げた現代の日本経済のよう。
文化に対する日本人の柔軟さはこの頃から顕著だったようですね。

貨幣は空と大地?古代中国の思想が覗ける四角い穴

四角い穴には、古代中国の思想も隠れています。

それは「天は円、地は方形」という考え方。

1枚の貨幣に空と大地を見出してしまうとは…、なかなかに壮大です。
4つの貨幣の四角い穴には、実用的な用途とビックスケールな思想が隠れていました。

通用期間に垣間見える切っても切れない政治と貨幣

最後に、それぞれが通用していた期間に、どのような歴史的な背景があったのか見ていきます。
どの時代にも共通するのは、貨幣の発行と政治は今以上に切っても切れない関係であることでした。

近年になって定説がひっくり返った富本銭は国内最古の貨幣!

貨幣史のトップバッターを飾るのは富本銭
しかし、富本銭が国内で通用した最古の貨幣であると確かに裏付けられたのは平成に入ってから。

それまでは和同開珎が定説で、「まじない銭」が富本銭の位置づけでした。

まじない銭とは呪術や祭祀において重要な役割を果たした銭の総称です。
寺院を建設した折に地鎮を目的として地面に埋めたり、仏像の体内に銭を収めたり、経済を回す富ではなく人の心の拠り所として大切にされていました。

まじない銭の類と考えられていた富本銭ですが、1998年にそれまでの見方が変わる出来事が起こります。

飛鳥池工房遺跡から欠損があるものを含めて約530枚も見つかったのです。

出土した場所には鋳造所があったようで、ここまでの枚数が1ヶ所で発見されたのは日本初。

それだけに留まらず、一緒に見つかった木簡が富本銭の歴史を語りました。
木簡に687年と書かれており、これがきっかけで注目が集まったのが、日本書紀の683年の項。

そこには、下記のように書かれています。

今より以後、必ず銅銭を用いよ、銀銭を用いることなかれ

鋳銭司(ちゅうせんし)と呼ばれる貨幣を扱う、公的な役職の記述もあり、これらの記述が富本銭を指している可能性が高まりました。
今後も研究が進めば、富本銭のように定説に変化が訪れるものが現れるかもしれませんね。

和同開珎から始まる朝廷の大失態?日本の貨幣発行を止めた皇朝十二銭

皇朝十二銭は国産貨幣に最初のピリオドを打つ貨幣シリーズです。

雲行きが怪しくなるのは711年、発行した銭の浸透を促すために朝廷は蓄銭叙位令を出しました。
平民でも庶民でも、一定額の銭を朝廷に納めれば相応の地位を与えるというルールは公平性があるようにも見えますが、これが原因で銭の偽造が蔓延します。

私鋳銭と呼ばれた偽物の銭は経済を蝕み、本物も価値と信用を喪失。

朝廷は私鋳銭に手を染めた者には死罪さえ与えましたが、それでも歯止めは効かず、とうとう和同開珎を改鋳するに至ります。
しかし、それが更なる悲劇の始まりでした。

再三にわたる改鋳の度に、銭の品質を落とすばかりか「旧貨幣10枚=新貨幣1枚」という朝廷ファーストの交換レートを設定してしまいました。

地位を得るために銭を蓄えていた人からすれば、貯金額が90%減になるわけですから、政策への支持など得られるはずがありません。
致命的な政策の失敗により、朝廷が発行する銭の信頼は地の底まで落ちました。

銅の不足も追い打ちとなってしまい、乾元大宝を最後に国内での貨幣発行が完全にストップします。
再開されるのは650年も後のこと、日本の貨幣発行の歴史が停滞する大事件となりました。

貨幣の発行機能が麻痺した日本国内では、中国から入ってきた渡来銭が流通するように時代が移っていきます。

戦乱の世を駆けた永楽通宝、旗印に採用した織田信長の真意とは?

織田信長は自身の旗印に永楽通宝を3枚もあしらっています。
永楽通宝が幅を利かせたのは、戦乱の世の真っ只中でした。
上杉謙信や武田信玄など、名立たる戦国大名が己の領地で流通させるオリジナルの貨幣(領国貨幣)をこぞって発行した時代です。


武田信玄の領国貨幣「甲州一分金」

武田信玄の領国貨幣「甲州二朱金」

そんな中、永楽通宝は標準通貨の地位まで昇りつめ、良銭の代名詞とまで言われるようになりました。

織田信長の旗印には、天下統一の先に永楽通宝に勝る良銭を発行して、日本の経済を発展させるという大願の果ての野望が読み取れます。
自らが考案した楽市・楽座で永楽通宝を流通させた点からも良銭へのリスペクトが伺えますね。

永楽通宝は屈指の戦国大名が推した質のよい貨幣でした。

天下統一の後は貨幣統一、三貨制度の締めくくり寛永通宝

徳川家康が天下統一を成した後、江戸幕府下で金・銀・銭に独立した価値を持たせる三貨制度が始まりました。
とりわけ銭は流通枚数が多く、金や銀と比べて統一に相当な時間を要しています。

質と量を安定させるハードルが高く、家康と秀忠が上洛の度に撰銭令を出していたことからも、貨幣統一に苦心した様子が伺えます。
三貨制度が立案され、日本で初めて貨幣統一が果たされるまでに将軍は3代目の家光になりました。

家光の代で寛永通宝が発行され、ようやく日本で初めての貨幣統一が現実のものとなり、以降300年以上にわたって寛永通宝は通用します。

寛永通宝については詳しく紹介している記事があるので、こちらも併せてご覧ください。

貨幣史が分かると、日本史がもう1つ面白くなる

日本の経済を彩った4つの貨幣について、名称の意味・デザインの根源・通用期間の3つの項目で比較しました。

名称やデザインには共通項が散見された反面、通用期間の様子には権力者の手腕や情勢の安定・不安定で大きな差がありましたね。

貨幣という観点から日本史を覗くと、趣の異なる一面が露わになります。
今後も皆さんを古銭の世界へ誘うトピックを配信致しますので、新しい投稿をお待ちいただけたら嬉しいです。