寛永通宝の当時の価値は何円?江戸時代で何が買えたのか?
古銭買取アンティーリンクです。
以前寛永通宝ってどんなお金?歴史と魅力を簡単に解説!にて、寛永通宝の四文字の意味や発行された経緯を紹介しました。
今回は寛永通宝の当時価値は何円だったのか、寛永通宝で人々は何を購入していたのかなど、より江戸時代の生活の近くで寛永通宝を深掘りします。
- 寛永通宝の当時の価値
- 江戸時代の買い物事情
- 現代の貨幣との「穴」の違い
- 寛永通宝の当時の価値を計るのが困難な訳
目次
駄菓子と米で見えてくる寛永通宝の当時の価値
寛永通宝の当時の価値がイメージできるように、駄菓子と米の価格を例にご紹介していきます。
寛永通宝1枚で買える一文菓子
地域によって特徴に差は生まれますが、主原料と味付けは下記のように簡単な表にまとめられます。
主原料 | 味付け |
米穀類、豆類、胡麻など | 黒砂糖、水あめ |
今では誰でも購入できる白砂糖。江戸時代はまだまだ貴重な調味料でした。
武士の生活水準の向上を目指した幕府の抑圧が強く、庶民が食べる菓子には白砂糖は使用できない決まりになっていました。
よって一文菓子は庶民でも食べる機会があった素朴な菓子の総称といえます。
寛永通宝は「素朴な菓子が1つ買える程度の価値」だったと説明できるでしょう。
寛永通宝100枚でどれくらいの米が買える?
18世紀はじめまでは米の百文以下での小売りはありませんでした。
大きな差が出るタイミングを抽出してみましょう。
時期 | 百文で買える米の量 |
18世紀はじめ | 三升 |
18世紀半ば | 二升を切る |
19世紀はじめ | 一升前後 |
徐々にその価値が落ちていくのが見て取れますね。
四文銭の登場で揺れる寛永通宝の価値
寛永通宝にとって価値変動の分岐点となるのが四文銭が世に出る1768年。
その前後の出来事を辿ると、寛永通宝の価値が低下した原因が見えてきます。
四文銭とは?これまでの寛永通宝との違い
四文銭は名が示すとおり四文の価値がある寛永通宝。
それまでの寛永通宝と大きく異なるのはサイズと裏面の模様です。
▲寛永通宝(一文)の裏面の画像
▲四文銭(背21波)の裏面の画像
サイズが少し大きくなり、裏面に新しく波の模様が刻まれました。その類を見ないデザインから波銭と呼ばれています。
▲四文銭(背11波)の裏面の画像
寛永通宝って価値がある?画像付きでレアな種類、母銭の見分け方を教えます!も、ぜひご一読くださいませ。
江戸時代と現代で役割が変わる貨幣の穴
▲寛永通宝(一文)百文緡の画像
一文の価値がある寛永通宝を100枚束ねたものを百文緡(ざし)や手数料で4枚引かれることから九六銭と呼んでいました。
手数料が引かれるといっても、束ねたものを解かなければそのまま百文として使用できます。
ATMで取引をすると手数料で預金が減る私たちからすると、貨幣の枚数が変わったのに所持金が変わらないのは不思議な感じがしますね。
ここからは四文銭の登場が江戸時代の人々の暮らしにどのような影響を与えたのかを覗いてみましょう。
新しい貨幣の登場で団子の個数が変わる?
四文銭の登場で団子の個数が変わったそうです。
それまでは1串5個で五文だった団子が、1串4個で四文になったのだとか。
団子1つあたりの価格は一文で変わりないので、値上げでも値下げでもありません。目的は会計時の利便性の向上と考えて間違いないでしょう。
仮に価格と個数を据え置いた場合、どう組み合わせても2枚以上の寛永通宝をやり取りする手間があります。
四文銭の発行に合わせて金額と個数を調整したため、団子の価値はそのままで会計が便利に。
現代では体験するのが難しい生活の変化かもしれませんね。
四文屋が登場!江戸時代でも重宝された均一価格
四文銭がもたらした江戸時代の生活の変化としてもう1つ挙げられるのが四文屋の登場です。
察しのよい方はピンとくると思いますが、今でいう100円均一ですね。
四文屋は四文で煮魚やおでんを売る屋台で、お洒落というよりは質素な佇まい。しかしながら、銭1枚で小腹を満たせる手軽さは庶民から人気を集めました。
鳶や大工は江戸時代を代表する職業ですが、彼らは一度に多くを食べずに間食を頻繁にとったそうです。
そういった時代特有の需要も取り込み、四文屋が登場する江戸後期は外食産業が目まぐるしく発展していきます。
経済の発展に比例して皆が早足になる中、さっと食べられる四文屋の食文化は働く者の心強い味方だったに違いありません。
四文銭の登場による影響を知るため、江戸時代の人々の生活にスポットライトを当ててみましたが、悪影響を受けた印象はありませんでした。
寧ろ変化に順応し、新たなビジネスチャンスを掴み、逞しく経済が成長していく姿が伺えます。
同様に、江戸時代の人々の暮らしの変化に寛永通宝の価値を下げるような原因は見当たりません。
寛永通宝の当時の価値を下げたのは江戸幕府の度重なる失策?
実は江戸幕府の度重なる失敗によって、寛永通宝の価値は下がっていきます。
四文銭が登場する以前、幕府は銅の資源不足に直面します。そこで打ち出された対策が鉄を素材とした銭の発行。
1739年に落ち着かない銭の供給を安定させるため、鉄一文銭が発行されます。
▲寛永通宝 鉄銭の画像
しかし、鉄一文銭の発行がさらに幕府を苦しめる結果に。
鉄一文銭は粗悪な仕上がりのものばかりで「鍋銭」と揶揄され、不評の嵐に晒される始末。
加えて材料費が高騰したときは、鉄一文銭を1枚発行するのに四文のコストを要したので、幕府の赤字が膨らんでいきました。
四文銭が登場した背景にも銅の資源枯渇の影が…。
江戸時代の人々の生活に変化をもたらした四文銭の材料は銅ではなく真鍮でした。真鍮は銅と亜鉛との合金、大量の発行が欠かせない銭の材料を変えて危機を脱しようとしました。
しかし、幕府は同じ失敗を繰り返してしまいます。
不評だったにもかかわらず、再び鉄製の銭に手を出してしまいました。登場したのは純度の高い鉄を材料とした鉄四文銭、不評だった前回の反省を活かし、質のよい鉄の使用を前面に打ち出しました。
▲鉄四文銭の画像
しかしながら幕府の工夫もむなしく、前回と同様に世間からよい評判は返って来ず…。発行益はマイナスに陥り、流通の安定を待たずに発行が終了しました。
江戸幕府は日本初の貨幣制度統一を成し遂げましたが、統一後の管理に苦労していた様子が伺えましたね。
資源不足や幕府の財政難で何度もつまずく寛永通宝、それでも300年以上日本の経済を渡り歩きます。
価値が下がっていったとはいえ、昭和の時代まで通用していたと考えると、流通に関わった人々の知恵の重みを感じざるを得ません。
寛永通宝の当時の価値は小さい子どもの小遣い程度
一文菓子や四文屋のお手軽グルメなど、寛永通宝1枚で買えるのは小さい子どもの小遣いでも買えるようなものでした。
現代でいえば、駄菓子屋や100円均一の店で何か1つ買える程度の金額といえます。
寛永通宝の当時の価値を正確に計るのは難しい?
計るのが難しい寛永通宝の当時の価値、イメージとして伝わりましたでしょうか?
最後に、寛永通宝の当時の価値を明示することの難しさについてお伝えさせていただきます。
自然や気候に左右されやすい物価
最初に挙げられる理由は自然や気候に左右されやすい物価です。
現代においても年毎の気候の具合や豊作か凶作かの度合いによってあらゆる物価に変化が起きますよね。
江戸時代の知識や技術が現代よりも劣るのはいうまでもないでしょう。
物価の変動が激しかったため、この時期に寛永通宝でこれだけのものが買えたとはどうしても言い切れません。
三貨制度による金・銀・銭の価値の独立
次に、金・銀・銭に独立した価値と用途が設けられていたのも説明をややこしくします。
銭で購入するものは銀では買えず、都度レートに応じた両替を行う手間があります。
現代に置き換えて説明するなら、金・銀・銭のそれぞれが外貨同士ような関係でした。1ドルで100円にしかならないタイミングや1ドルで110円になるタイミングがありますよね。
金・銀・銭はこのドルと円の関係によく似ています。
常に同じ枚数の寛永通宝で同じ枚数の銀と交換できるわけではありませんでした。
寛永通宝の当時の価値を見定めようとすると、他の貨幣の価値も細かく把握しなければなりません。
加えて、それぞれの間にはデリケートな物価によって目まぐるしく変わる両替のレートが存在します。
最後まで読んでくださったみなさんの疑問点が少しでも払拭できていればと思います。今後も複数回にわたって寛永通宝含めを様々な古銭を取り上げていきますので、続編の更新をお待ちください!