板垣退助ってどんな人?100円札に選ばれた理由や歴史を解説
100円札の板垣退助について、どのくらい知っていますか?なぜ100円札に選ばれ、どのような人物だったのでしょうか。そして、今では見かけることの少なくなった板垣退助の100円札は、どのような歴史を持っているのでしょうか。
この記事では板垣退助という人物から100円札の歴史について紹介しています。
目次
100円札の板垣退助ってどんな人?
板垣退助は、明治時代に活躍した政治家として知られています。彼は自由民権運動をリードし、日本の民主主義の基礎を築いた人物です。
100円札に描かれた彼の功績や人生について、詳しく見ていきましょう。
自由民権運動の中心人物
板垣退助は、個人の自由と権利を何よりも重視していました。
彼が目指したのは、 政府の権力から国民を守ることでした。なぜなら、当時の日本は明治政府による強い中央集権体制下にあったからです。
彼は、国民一人ひとりが自由に意見を言える社会を作るため、全国を回って演説を行いました。
明治政府の参議となる
板垣退助は幕末の武士です。
土佐藩で尊王攘夷運動に参加しました。戊辰戦争の功績によって土佐藩の家老格に出世し、1871年(明治4年)に廃藩置県を断行しました。
それらの功績が認められ、当時の明治政府では大臣以上の権力を持つ参議になりました。
1度は政府を去り下野
明治政府の参議になるという大きな出世をした板垣退助。しかし、彼は2年後に政府を去ることになります。
その1番の理由は、征韓論(せいかんろん)に反対されたことです。征韓論とは、鎖国中の朝鮮を武力で開国させようという考えのことです。
彼は、自分の理想とする政治が実現できないと感じ、1873年(明治6年)、36歳で下野する(与党を去る)ことにしました。
国会を開設
板垣退助は政府を去った後、出身地である高知に戻りました。国会開設を目指して自由民権運動を活発に行いました。
彼は、日本初の自由民権運動における政治結社「愛国公党」を設立。この団体を通じて、国会開設を要求する「民撰議院設立建白書」を政府に提出したのです。
その後、板垣は「立志社」を開設し、自由民権運動を全国的に広めました。やがて「大阪会議」と呼ばれる重要な会議に参加し、そこで政府へ復帰することになります。
板垣が国会の開設を強く進めようとしたのには、重要な理由がありました。
当時の日本には、国民の意見をまとめて政府に伝える仕組みが存在しませんでした。そこで彼は、選挙で選ばれた代表者が国の政策を決める国会の必要性を訴えたのです。
第二次伊藤内閣の内務大臣
1度下野したものの、再度参議した板垣退助。彼は第二次伊藤内閣で内務大臣になりました。内務大臣とは、国内の治安や地方行政を担当する重要な役職です。
彼は特に、地方自治の強化に力を入れました。中央政府だけでなく地方にも権限を与えることで、より効率的な国の運営を目指したのです。
板垣退助の名言
「板垣死すとも自由は死せず」は、板垣退助の代表的な名言です。これは、1882年(明治15年)、彼が45歳の時に起きた暗殺未遂事件の際に発せられたとされています。
彼は岐阜での演説中に刺客に襲われます。その際に「吾死するとも自由は死せん」と発言。それが後に「板垣死すとも自由は死せず」と伝わったとされています。
この言葉には、「自由の理念は一個人を超えて永遠に続く」という、彼の強い信念が込められています。
板垣100円札の価値については「板垣退助100円札の種類ごとの価値について解説」をご確認ください。
100円札誕生の歴史
100円札には、日本の経済発展と共に歩んできた歴史があります。
そんな100円札に込められた意味や、デザインの移り変わりについて見ていきましょう。
なぜ100円札が生まれたのか
1番始めに100円札が発行されたのは1885年(明治18年)。当時は、政府紙幣や国立銀行紙幣など発行元の統一されていない種類が複数ありました。
そんな中、西南戦争の戦費調達を発端として、紙幣を大量に発行したことでインフレーションが発生。それを問題視した松方正義により、政府から独立した唯一の発券銀行として日本銀行が創設されました。
その日本銀行が発行した最初の紙幣が「日本銀行兌換銀券」と呼ばれる100円札です。
初代の100円札は大黒天
最初の日本銀行兌換銀券には、大黒天が描かれていました。そのため、通称「大黒100円」や「大黒札」と呼ばれています。
これは、日本初の100円額面を持つ日本銀行兌換券です。
先ほど紹介したインフレーションや通貨の濫発を理由に、経済の安定化や信頼性の向上を図るために発行されました。
板垣退助に変更したのはいつ?
板垣退助の肖像が100円札に登場したのは、1953年(昭和28年)のことです。インフレーション抑制のために発行が開始されました。
板垣退助の前の100円札(通称「A号券」)は聖徳太子です。
板垣退助が選ばれた理由は、先ほども紹介したように、民主主義の基礎を築いた功績が評価されたためと言われています。
このデザインの100円札は、1974年(昭和49年)まで約20年間にわたって発行され続けました。
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現在、板垣退助の100円札はもう流通していませんが、法律上はまだ有効な通貨です。つまり、法律的には使うことができます。
ただし、実際の店舗ではほとんど受け取ってもらえないでしょう。板垣退助の100円札があったことすら、知らない人もいるかもしれません。
板垣退助の100円札は、実際に使うよりもコレクターの間で価値のあるものとして取引されています。
歴史が詰まった板垣退助の100円札の魅力
板垣退助の100円札には、日本の近代化と民主主義の歴史が込められていることを紹介してきました。
板垣退助の肖像が描かれた100円札は、ただの通貨以上の価値を持っています。現在ではコレクターズアイテムとしても人気があります。
歴史的な意味だけではなく、コレクションとしての価値も持った100円札。
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