寛永通宝を拾った!採掘要らずで巡り会う理由を考えてみた

寛永通宝を拾った経験がある方は、少なくないのでは?

私も近所にあるお寺の敷地内で寛永通宝を拾った記憶がありますが、歴史の教科書で習うような時代の貨幣を偶然拾ったワクワク感は今でも新鮮です。
とはいえ時は既に令和。

寛永通宝の通用期間は確かに長いですが、日本経済を回っていたのは主に江戸時代です。
本記事では、史実に基づいて寛永通宝が現代の道端でも頻繁に発見される理由を考察していきます。


この記事で分かる事柄は以下の3つです。

  • 通用しなくなった寛永通宝の使い道
  • 寛永通宝が貨幣として終わりを迎える歴史
  • 私たちの生活に直接につながる円のはじまり

戸車銭は寛永通宝の成れの果て?もったいない精神が伺える生活の知恵

お寺の境内や畑など、色々な場所で寛永通宝が発見される理由の1つと考えられるのが戸車銭。

戸車銭とはどんなものか、古銭としての価値はあるのか、について紹介します。

貨幣として価値を失った寛永通宝の代用案、戸車銭とは?

戸車

戸車は、引き戸の下部に取り付けられるドーナツ型の金具で、開け閉めを円滑にする役割を担っている部品。
戸車銭は文字通り、戸車として使われた銭を指します。

寛永通宝 戸車銭
寛永通宝 戸車銭
寛永通宝
寛永通宝

古代中国の思想「天は円、地は方形」に由来する四角い穴を丸く加工し、引き戸の戸車代わりにしていました。

通用していた貨幣をわざわざ加工まで施して、戸車に使用したとは考えづらいため、寛永通宝が使えなくなった後に生まれた代用案だと思われます。

日本から世界へ広まった「もったいない」の精神が感じ取れますが、代わりの用途を見出すのに苦労した結果にも見えますね。
そこまで手間をかけたくないと、捨ててしまう人もいたのではないでしょうか。

貨幣の価値を喪失した経緯については、後半で触れるため、ここからは戸車銭の古銭としての価値を見ていきましょう。

戸車銭の古銭としての価値は?

残念ながら、戸車銭には儲けになるような価値がつくケースはほとんどありません。

発行の過程で起きた偶然が希少性につながるエラーコインとは異なり、人為的に加工された証であるため、それらの間には明確な線引きがあります。
加えて戸車銭はその用途から相当な劣化が予想されるので、貨幣として形を留めている寛永通宝と比べて価値が高くなるとは考えにくいでしょう。

古銭の価値は希少性と保管状態で決まる、といっても過言ではありません。

弊社で寛永通宝を買取させていただく場合、1gあたり3.5円が標準的な買取価格です。
1枚が3~6gほどなので、1枚あたり10~20円程度。
ただ、寛永通宝の種類によっては高い価値が付くものもありますので、詳しくは「寛永通宝って価値がある?」をご覧ください。

通宝=世の中に広く通用する宝、名が体を表すように寛永通宝は発行枚数が多いため希少性が上がり切りません。
大幅に加工された形跡があると保存状態も減点なので、戸車銭がこれ以上の価値になることもないです。

塵も積もれば…ですが1枚だけなら、歴史に思いを馳せたり、話の種にしたりする楽しみ方がよいでしょう。

「手元に買取を予定している古銭があるけれど、保管方法が分からない」という場合には、初心者向けのこちらの記事もおすすめ。

寛永通宝が戸車銭になるまでの歴史的な経緯

寛永通宝と、私たちが使う円の貨幣史の隣接が理由の2つ目。

江戸時代に誕生したと聞くと、遠い昔の話に聞こえますが、貨幣史の観点から見ると寛永通宝と円は隣り合っています。
貨幣史ではお隣さんと考えると親近感が湧いてきませんか?

ここでは、寛永通宝が貨幣としての価値を喪失する瞬間と、円への転換について紹介します。

日本経済は円の時代へ!私たちの生活に直接つながる新貨条例とは?

日本経済が円の時代へ突入するのは1871年。

新貨条例が施行され、円を共通の単位とする貨幣制度の導入が始まります。
しかしながら、新制度に合わせた円単位の貨幣の流通は鈍足でした。

三貨制度が敷かれ、寛永通宝の発行で日本初の貨幣統一がなされた折にも、再三の撰銭令や要した時間にその難しさが伺えました。

新貨条例が世に出た際も、何か問題があったのでしょうか?

ヒントはセント、銭の読み方変更に見る時の権力者の思考

新しい貨幣の流通を妨げていたのは、他ならぬ政府でした。

国民が最も普段使いするであろう少額貨幣の供給を後回しにして、海外との売買に用いる金貨と銀貨の製造を優先していたのです。
江戸幕府やそれより以前の秀吉の政権下でも同様の動きがあったそうですが、時代が明治に入ってもなお、権力者の富が先に立っていました。

しかし、寛永通宝は当時の少額取引の一切を担う、最も汎用性に長けた貨幣。
日々の食費から旅の交通費まで、その用途は生活に密接したものばかり、通用が止まったからといって少額貨幣の需要は下がりようがありません。

進まない新制度下の新貨幣の流通、下がらない少額貨幣の需要、政府が打ち出したのは銭(ぜに)を銭(せん)に読み替える使いまわし作戦でした。

読み方はドルの下位単位であるセントを参考に「銭」の字を充てたとされています。
円のさらに細かい単位として「銭」を設定し、江戸時代の貨幣を代用しました。

銭(ぜに)を銭(せん)として、円の単位に換算しての使用を許可したのです。

寛永通宝の通用期間が300年以上にわたる理由がこれです。

江戸時代に貨幣統一が成されて全国で支障なく重宝された質と量があったからこそ、円の供給が安定するまでのつなぎを果たせたといえるでしょう。
しかしながら、自分たちが使用するものだけリニューアルして、国民の多くが使う貨幣がおさがりとは…いかにも世論に不満が溢れそうな政策ですね。

国力を思えばこそとも受け取れますが、政府の目が国民の生活に向いていないようにも映ってしまいそうです。

その後、1874年に3年遅れで少額貨幣が新制度下で発行されました。
これを境に銭の通用は種類ごとに順次停止していきます。

銭の歴史ここに閉幕、ついに施行される少額通貨整理法

後回しになっていた少額貨幣の供給が安定するに連れ、場当たりで使用されていた寛永通宝の通貨としての役割も徐々に収束していきました。

銭から円への切替の締めくくりとなる、少額通貨整理法が1953年に施行されます。
これにより円以下の少額単位が廃止となり、寛永通宝もいよいよ通用が完全に停止。

ちなみに通用はしていない現在も、銭は計算単位として法律で定義されています。

株価が例として分かりやすいでしょうか?

通用の完全停止以降に戸車銭のような代替案が編み出されたと考えられます。
当然ながら通常の戸車を使えば済む話。

わざわざ固い寛永通宝の四角い穴を丸く加工する必要はありません。
繰り返しにはなりますが、価値がないなら…と捨ててしまう人もいたでしょう。

発行技術の差は横に置いておいて、現代の円と同等の規模で流通していたとすれば、そのような末路を辿った寛永通宝の枚数は計り知れません。

通用の完全な停止から数えると、まだ100年も経っていないため、現代の私たちが寛永通宝を道端で拾えてしまうのも不思議ではないように思います。

余すところなく使い尽された寛永通宝は生活の支え

はじめての統一貨幣として江戸時代の日本経済を支え、円への転換期にも国民の生活に寄り添った寛永通宝。
その役割を全うした後も戸車銭に形を変えて、全国の家の引き戸を支えました。
全国で使用が安定する枚数の供給と300年以上にわたる通用期間、利用の停止後も与えられた役割。

私たちが頻繁に寛永通宝を拾うのには、余すところなく使い尽された寛永通宝のドラマがありました。

当スタッフブログでは、古銭を身近に感じられる話題を日々お届けしています。
みなさんが古銭の世界にご興味を持つきっかけになれば嬉しいです。

これからも寛永通宝を多様な角度から紹介しますので、更新の際にはぜひご覧ください。