寛永通宝ってどんなお金?歴史と魅力を簡単に解説!

寛永通宝ってどんなお金?歴史と魅力を簡単に解説!

今回は、江戸時代に誕生した日本初の共通貨幣「寛永通宝」の歴史を深掘りしていきます!

300年以上も通用していたことから、たくさんのバリエーションのある特殊な貨幣である寛永通宝に込められた意味から発行に至る歴史まで詳しく紹介します。

記事を読むと分かること

  • 刻まれた寛永通宝の意味
  • 寛永通宝の歴史
  • 寛永通宝が発行された目的
  • 寛永通宝が一角を担った三貨制度の仕組み

寛永通宝とは?流通した時代と刻まれた文字の意味

寛永通宝は、江戸幕府成立直後から構想が始まった三貨制度(金貨、銀貨、銭貨の3種類の貨幣を流通させる貨幣システム)の詰めに発行された貨幣です。

最初に流通した時期と寛永通宝に込められた意味を見ていきましょう。

寛永通宝は1953年まで使うことができた?

1636年に発行が開始された寛永通宝ですが、完全に通用しなくなる1953年まで実に317年もの間使用可能でした。

日本の貨幣にとって歴史的な転換点になったのは1897年に定められた貨幣法です。これにより江戸時代の経済を飛び回った貨幣のほとんどが流通を禁止されます。

しかしながら、2種類だけ流通の禁止を免れた貨幣がありました。それが一文銅銭と四文真鍮銭、両方とも寛永通宝の種類の1つです。

寛永通宝(一文銅銭)
寛永通宝(四文真鍮銭)

流通の禁止を免れたとはいっても、実際の流通は滅多になかったようです。

一文銅銭も四文真鍮銭も1953年に、円以下の銭・厘が廃止されたことに伴い、通用が完全に停止しました。

寛永通宝にはどんな意味が隠れているのか

気の遠くなるような枚数の銭に刻まれたであろう「寛永通宝」の4文字には当然ながら意味があります。

「寛永」は慶長と元和に続く江戸時代の3つ目の年号で、1624年2月30日~1644年12月16日までこの年号が使われていました。「通宝」には世間に通用する宝、という意味があります。
2つの意味を合わせれば「寛永の時代に広く流通する一般的な貨幣」と解釈できます。

日本の貨幣統一を担う銭には相応しい4文字ですね。

江戸幕府が寛永通宝の発行に至った2つの背景

昭和まで300年以上使われ続けた寛永通宝ですが、そもそもなぜ発行される運びになったのでしょうか?
そこには明確な2つの目的がありました。

質と量が不安定だった銭の供給の安定化

1つ目の目的は民間に委ねていて不安定だった銭の量と質の安定化です。

江戸時代、銭は交通費の支払い手段として欠かせないものでした。旅には銀を携帯し、都度必要な分だけ銭への両替を行い、宿代や飲食代の支払いに使うのが一般的でした。

不安定な質と量の銭が個人の旅に与える影響は微々たるものでしょうが、幕府の単位になるとそうはいきません。
将軍権力が確固たるものになる第3代将軍徳川家光の時代までは、将軍と大御所の上洛が何度も行われていました。

もちろん将軍と大御所の移動には武士団の移動が伴います。
交通費の精算に必ず必要な銭の供給が安定しないと、大量の人員と物資の迅速な運搬に支障が出るのは、現代の私たちが考えても目に見えていますよね。
実際に当時は中国から入ってきた銭や民間の銭など、とにかく種類が多かったため、質も量もバランスを取るのは至難の業

初代将軍徳川家康と第2代将軍徳川秀忠は上洛の度に撰銭令を出しており銭の質と量の確保に追われていたことが伺えます。

海外への銭輸出の規制

2つ目の目的は各所で横行していた銭輸出の規制の本格化です。

規制以前は国内で発行された質の悪い銭が朱印船やオランダ船によって大量にベトナム方面へ輸出されていました。
覇権を握った幕府にとって、諸勢力が貿易によって活気づくのを見逃すわけにはいきません。
自由な銭輸出を規制したうえで、各地に散らばっていた貨幣の生産技術を寛永通宝の発行に集約する狙いがあったと考えられています。

銭輸出の規制が十全になるのは1635年、日本人の海外渡航及び帰国の禁止が決定打となりました。
その翌年、1636年に満を持して寛永通宝の発行が開始されます。

寛永通宝を作らせたのは第3代将軍徳川家光

寛永通宝の発行が開始された1636年は家光の時代。

先代の秀忠が1608年~1609年にかけて三貨(金・銀・銭)の公定相場を決めてから25年以上の月日が経過していました。
寛永通宝の登場で、ようやく真の貨幣制度統一が現実のものになりました。

家光の代で将軍権力が盤石なものとなり、貿易の管理も行き届いたことで、日本は鎖国の時代へと歩みを進めます。

寛永通宝が一角を担う三貨制度とは?

寛永通宝がその一角を担う三貨制度がようやく日本で初めて全国共通のルールとなりました。

基盤となる制度は統一される以前からの仕組みでした。
金、銀、銭を用途別で使い分け、異なる用途で使用する場合はレートに順じて両替を行っていました。
何を買うにしても同じ紙幣と硬貨を使う現代の私たちからすると、貨幣によって用途が異なるというのは少々不便に聞こえるかもしれませんね。

しかしながら、貨幣の間にあるこの隔たりにこそ、江戸幕府の政治的な意図がありました。

全国的な政権となった江戸幕府の権力を示す金

江戸時代の天保小判金
江戸時代の慶長一分金

金は江戸を中心とした東日本で流通しました。

軍資金や儀礼用として用いられていたため、誰もが手にするお金というわけではありませんでした。
東日本とそれ以外で流通する貨幣に差をつけることで、江戸幕府の権力を誇示したとされています。

貿易を担った銀に見る江戸幕府の貿易戦略

江戸時代の享保豆板銀
江戸時代の文政丁銀

銀は上方を中心とした西日本で流通しました。

領主層や上層農民、都市民が使用した貨幣です。
金と同様に軍資金や儀礼用としての役割もありましたが、取り立てて使用されていたのは貿易です。

積極的に輸出されていた銀ですが、江戸幕府が早々に規制を敷きます。
1616年頃に銀輸出を取り締まる目的で長崎に銀座を設置。以降、輸出する銀を質の低い丁銀のみに厳しく絞りました。

新たに設置した銀座に良質な灰吹き銀を集め、大名や町人による貿易を制限することで、統制を強化したとされています。

銭は唯一階層による区別がない生活に近い貨幣

江戸時代の慶長通宝銭
江戸時代の天保通宝銭

寛永通宝へ統一される銭は、唯一誰でも使用する機会がありました。

交通費の精算をはじめ、あらゆる少額の取引に用いられました。
金や銀と比べて、用途も利用者も圧倒的に多かったため、銭だけ貨幣統一に相当な時間を要したのも納得できます。

金・銀・銭の違いをまとめると下記のとおりです。

流通地域 使用した階層 用途
江戸を中心とした東日本 江戸幕府 軍資金、儀礼用
上方を中心とした西日本 領主層、上層農民、都市民 軍資金、儀礼用、貿易用
全国 全ての階層 少額の取引

寛永通宝は誰もが手にできた唯一無二の貨幣

江戸時代に誕生した日本初の共通貨幣「寛永通宝」について深掘りしました。

誰もが手にできた寛永通宝は、より多く人の手を渡ったといえるでしょう。
あなたの手にする1枚の寛永通宝にもたくさんの人々の歴史が折り重なっています。そんな歴史に思いを馳せるのも古銭の楽しみ方の1つかもしれませんね。