最後の一円札の価値はどのくらい?二宮尊徳はなにものなのか

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現在ではもう使用されていない一円札ですが、古銭としての価値はどのくらいあるのでしょうか?
比較的状態のいい古銭を見つけたらその価値が気になりますよね。そもそも一円札に描かれている人物が誰なのかも疑問に思うのではないでしょうか。
一円札に描かれている人物は教科書に載っているわけではない、比較的マイナーな人物ですが、正体を聞けば誰もが知っているような有名人です。この記事では最後に発行された一円札の価値と描かれた人物について解説します。

最後の一円札の価値はどの程度なのか

最後の一円札の価値はどの程度なのか

現在も使用可能な一円券ですが、その全ては昭和33年(1958年)10月1日に発行が停止されています。
その中でも、最新の一円札である日本銀行券A号は昭和21年(1946年)3月19日に発行が開始され、12年間発行されていました。二宮尊徳が描かれていることから「二宮一円札」と呼ばれることもあります。

しかしながら、二宮一円札は相当数発行されていて戦後発行の比較的新しいものであるためそれほど価値が高いわけではありません。よほどの美品か帯封・官封であればプレミア価格がつくこともありますが、高価買取は期待できないでしょう。

それでも一円として使用するよりは高額になりますし、組番号によってはかなりの高値になる可能性もあります。

高額な二宮1円札はほとんどがエラー品!

二宮1円札で高い価値で取引されるのはほとんどがエラー紙幣です。戦後間もない昭和21年(1946年)はまだまだ紙幣の製造技術も管理体制も整っておらず、製造時にエラーが生じたことで通常のものと異なる、いわゆるエラー紙幣が数多く確認されています。

福耳エラー:裁断時のエラーで、紙幣の断片の一部がくっついた状態のものです。アンティーリンクでは20,000円での買取実績があります。

印刷漏れエラー:紙幣のデザインの一部が印刷されていないというエラー紙幣です。アンティーリンクでは13,000円での買取実績があります。

裏写りエラー:裏面のデザインが、表面に透けてデザインされてしまった状態のエラー紙幣です。アンティーリンクでは30,000円での買取実績があります。

裁断ズレエラー:紙幣は大量の紙幣を1つのシートに印刷してから、後で裁断するのですが、裁断時のエラーで、となりの紙幣のデザインが一部が残っているエラー。取引相場としては状態にもよりますが20,000円前後の価値が付きます。

見本券は価値が高い!

見本券とは、新しく紙幣を発行する際に、サンプル品として実際の流通紙幣と同じデザインやサイズで印刷された特別な紙幣です。見本券の見分け方としては分かりやすく、赤字で「見本」と印字され、穴開けパンチでつけた小さな丸い穴が付けられているのが特徴です。アンティーリンクでも32,000円の買取実績があります。

印刷所によって価値が変わる?

この二宮一円札は民間によってデザインされたもので、民間企業にも印刷が委託されました。
そのため、この二宮一円札の価値は印刷所によっても異なります。

発行印刷所は組番号の下二桁で識別が可能です。

下二桁 発行印刷所
12 印刷局・滝野川工場
22 印刷局・酒匂工場
32 印刷局・静岡工場
42 印刷局・彦根工場
13 凸版印刷・板橋工場
44 大日本印刷・榎町工場
15 共同印刷・小石川工場
16 東京証券印刷・王子工場
26 東京証券印刷・小田原工場

ほとんどの一円札の買取価格は数百円程度ですが、「13・板橋」「44・榎町」「42・彦根」「32・静岡」は価値が高く、1000円以上の値がつくこともあります。
もちろん買取価格は確実ではなく、状態にもよるものがありますが、大した価値はないかもと諦める前に組番号を確認してみてください。

余談ですが、組番号が1から始まるなら日銀紙幣、2から始まるなら政府紙幣といった違いもあるようです。
こちらにも注目するとおもしろいかもしれません。

一円札に描かれている人物はなにもの?

一円札に描かれている人物はなにもの?

二宮尊徳は、初めて紙幣に描かれた民間人です。
飢饉が流行し、藩や村が財政難に陥っている中、生涯で600もの農村と地域を復興させました。
彼の唱えた「報徳思想」は子孫や弟子に受け継がれ広まって、現在一万円札の肖像に描かれている渋沢栄一やパナソニックを1代で築き上げた松下幸之助など多くの財界人・実業家に影響を与えたと言われています。

二宮尊徳と言われてもピンと来ない方は多いと思いますが、彼の幼名である二宮金次郎というと有名な銅像が思い浮かぶのではないでしょうか。
学校によく置いてある、薪を背負って本を読みながら歩く少年の像のモデルになったのが、一円札に描かれている二宮尊徳の少年期です。
幼いころから貧しい家計を支えるために薪を売る仕事をしていましたが、夜には火を焚き勉強を欠かさなかったという勤勉な働き者の姿が銅像のモチーフになりました。

二宮尊徳の生涯

二宮尊徳は1787年9月4日に現在の小田原市で百姓の長男として誕生しました。

金次郎と名づけられ教養ある父の教育と優しい母の慈愛を存分に受けて育ちますが、不幸にも異常天候により酒匂川の氾濫が何度も重なり田畑が荒廃し貧しい生活を余儀なくされます。
両親は心身ともに疲労困憊で相次いで亡くなり、一家離散となってしまいました。

伯父に預けられた金次郎は、こんな逆境にもめげずに作業の間に稲の捨て苗や菜種を空き地に植えて収穫、毎年その収益を増やして田畑を買い戻し、実家の再興にこぎ着けます。
その卓越した手法を惜しみなく活かして近親者の家政再建に尽力したほか、奉公先でも立て直しを依頼されます。
金次郎は優れた発想と実践力を評価され、藩主に見込まれると財政難に苦しむ地域の財政再建を託されました。

これを転機に契機に財政再建・農村復興に力を注いで復興事業や飢饉救済に多忙を極めると、晩年には幕臣に取り立てられ日光神領をはじめ一部幕府領の再建に総力をあげて取り組みます。

1856年に70歳でその生涯を終えるまで報徳思想を広め600の村や地域を復興させました。

報徳思想とは

二宮尊徳が提唱していた思想や方法論で、「万物にはすべて良い点(徳)があり、それを活用する(報いる)」というものです。

「大自然の恵みに感謝しながら、自分が信じたことを力いっぱい行うことが本当に豊かな社会を作り上げる」という教えを、尊徳が人生経験の中で体得しました。
主に4つの原理を柱としています。

  • 至誠

真心をもって誠実に物事へ取り組むこと

  • 勤労

各々の職業に誇りをもってその仕事を高めることに力を入れるべきである

  • 分度

収入の中で適切な支出範囲を決めること

  • 推譲

分度で残しておいたものを自分の意志で人に譲ったり将来に残したりすること

この教えには多くの実業家や財界人が影響を受けており、この教えが600もの農村・地域の復興に役立ちました。

※参考:
二宮尊徳と報徳 | 報徳博物館
真岡の偉人「二宮尊徳」の説いた「報徳」とは? | 真岡市公式ホームページ

肖像になるのは違う人の予定だった?

実は図案考案当時、一円札の肖像には引き続き武内宿禰(たけしのうちすくね)が選出される予定でした。
しかし、第二次世界大戦の敗戦国となった日本はGHQ(連合国軍総司令部)の過酷な占領政策下にあり、紙幣の発行にも指導が入りました。
GHQは古代の忠臣である武内宿禰を「軍国主義のシンボルである」と却下したのです。

言いがかりのようにも思えますが、発行期日が差し迫っていたこともあり武内宿禰を二宮尊徳に差し替えて再申請し発行許可を得ることとなりました。
GHQが理想とする肖像の候補には二宮尊徳、板垣退助、高橋是清、岩倉具視、伊藤博文が選出され、これらはすべて政治家です。
一説には「天皇中心の国家づくりを進めることはGHQにとって不都合だったので皇族または皇族を補佐した人がお札に載ることに反対した」とも言われており、政治を中心とした国家づくりを目指したと読み取れます。

もしも日本が第二次世界大戦に勝利していたら、二宮尊徳は紙幣の顔にはならなかったかもしれません。