田沼意次は南鐐二朱銀をなぜ作った?わかりやすく解説!

田沼意次は南鐐二朱銀をなぜ作った?わかりやすく解説!

田沼意次と南鐐二朱銀

田沼意次(たぬまおきつぐ)は在のお金に関して、大変な功績のある重要な人物です。
田沼意次は「貨幣改革」を行ったと言われており、その代表的なものが「南鐐二朱銀(なんりょうにしゅぎん)を作ったこと」です。

ここでは田沼意次と「南鐐二朱銀」についてわかりやすく説明します。

田沼意次は南鐐二朱銀をなぜ作った?

1600年(慶長5年)に徳川家康は江戸幕府を開きました。
そして政治はもちろん、経済的な支配においても強固なものにしようと考え、「貨幣制度」を確立させました。幕府は全国に貨幣を流通させる目的のために金座、銀座、銭座貨幣鋳造機関を設立して貨幣を鋳造しました。

江戸時代の貨幣制度は「三貨制度」と呼ばれています。
「金貨」「銀貨」「銭貨」がそれぞれ独立しており、相場が変動していて、同じ日本にドルやユーロがあるような状態でした。
そんな中、田沼意次は小普請組頭だった川井久敬の(かわい ひさたか)の提案により「明和五匁(もんめ)銀」を発行しました。

川井久敬は田沼意次の貨幣政策の実現に向けて尽力した人物です。
金と銀の交換レートを「金1両を銀60匁(もんめ)」にし、「五匁銀12枚を金1両」と、価値を固定しました。
意次は「相場変動に煩わされない」として流通させようとしましたが、両替商に大きな反発を食らいました。彼らは金と銀の両替や相場取引で大きな為替差益を得て儲けていたのです。
これにより明和五匁銀は8年で鋳造終了となってしまいました。

しかし意次はこれにも負けずその7年後の明和9年、「南鐐二朱銀」を作りました。素材にこれまでに例のない南鐐銀(ほぼ純銀)を使用しました。
表面には「以南鐐八片換小判一両」…つまり「南鐐二朱銀8枚で小判(金)1両に交換する」という意味の刻印が打たれています。
「南鐐二朱銀」は銀であるにも関わらずあえて金の単位である「朱」という表現を使っています。

意次は「通貨の一元化」を進め貨幣の価値を安定させ、取引の円滑化を図ろうとしました。
もちろん両替商たちは反発しましたが、

  • 軽い(金2朱相当の銀の重さは純銀で3匁ですがこの銀貨は2.7匁)
  • 1枚が1両の8分の1と、金額が手頃
  • 重量をいちいち量る手間も不要で使い勝手がよかった

などの理由により、徐々に流通していきました。

田沼意次とは?

「南鐐二朱銀」を作った田沼意次とはどのような人物でしょうか?
ここでは田沼意次についてわかりやすく説明します。

田沼意次について

田沼意次は、享保4年(1719年)に江戸で生まれました。父親は幕府旗本になった田沼意行(たぬまおきゆき)です。

1735年(享保20年)、父のあとを継ぎ徳川家重(とくがわいえしげ)の親衛隊として仕えました。
1745年(延享2年)、意次は徳川家重に才能を見抜かれ本丸(将軍の住まいである)を守る「本丸仕え」に抜擢されました。
1772年(安永元年)、意次は老中へ昇格しました。江戸時代に小姓から老中まで出世したのは田沼意次のみです。

その後の時代は「田沼時代」と呼ばれ、様々な政策を打ち出しました。

  • 株仲間の奨励…商業の統制を図るために同業の問屋で結成した組織を奨励した
  • 「銅座」「人参座」「枡座」などを作って専売制を敷き、商人から運上金という税金を取り立てた
  • 鉱山の採掘

などを行いました。
中でも最大の功績が「貨幣改革」「財政改革」でした。

田沼意次の人生

出来事
1719年 田沼意次、駿河国(現在の静岡県)で生まれる
1745年 幕府に仕官し、政治家としてのキャリアをスタート
1767年 側用人に就任し、実質的な権力を握る
1772年 老中に就任し、経済政策を推進
1784年 南鐐二朱銀を発行し、貨幣制度の改革を行う
1786年 息子の田沼意知が暗殺され、政治的地位を失う
1788年 田沼意次、死去

田沼意次は賄賂をもらっていた?

田沼意次は「賄賂」というイメージが強いといわれますが、どのようなものだったのでしょうか?
そもそも江戸時代では有力者に金銭や物を渡して何かの利益を得る、いわゆる「賄賂」は不法行為ではなく、常態的に行われていたものだったと言われています。

なぜ田沼意次に「賄賂政治家」という噂が広まったかと言いますと、田沼政治時代、田沼意次の屋敷には多数の商人や押しかけ、便宜をはかって貰おうと賄賂を渡していたため沢山の賄賂が集まり、有名になったそうです。

一方で意次は賄賂の全てを懐に入れていた訳ではなく、部下などに酒や食べ物を振舞っていた、という話もあります。
ですが結局賄賂の横行により政治が混乱し、意次は辞任に追い込まれたとのことです。

田沼意次はイケメン?

田沼意次はイケメンだったと言われています。
一説によると異例の出世をしたのはイケメンだったから、という話もあるくらいです。田沼意次の写真は残念ながら残ってはいないそうです。

イケメンエピソードとして

  • 大奥の女性たちが「豆まき」という行事の際に、無礼講なのをチャンスとして将軍側近などの男性陣の中から「年男」を簀巻きにするといういたずらをしていましたが意次は近寄りがたくターゲットにはされなかった
  • 意次は徳川家治の側室であった「お知保の方(おちほのかた)」に贈り物を届け大奥を味方に付け、その結果大奥では田沼意次に反対する者はいなかった

などのエピソードがあります。

まとめ

田沼意次が南鐐二朱銀を作った理由は、経済の安定と商業の活性化を図るためでした。
貨幣の価値を安定させ、小額取引を円滑にすることで庶民の生活を支え、幕府の財政も改善しようとしたのです。
彼の政策には賛否両論がありましたが、経済の混乱を解消するための重要な試みとして評価されます。

南鐐二朱銀の発行は、江戸時代中期の経済政策の一環として、日本の貨幣史において意義深い出来事でした。
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