明治通宝の偽物が見つかったので真贋レポートあげます

明治通宝の偽物を紹介

偽札の登場で通用停止に追い込まれた明治通宝。当時の偽物が見つかったので、本物と比較しながらご紹介していきます。

藤田組贋札事件についてもかんたんに解説していきます。

偽物によって通用停止となった明治通宝

明治通宝(めいじつうほう)は、日本の明治5年(1872年)に発行された政府紙幣です。100円、50円、10円、5円、2円、1円、50銭、20銭、10銭の9種類の紙幣がありました。

日本で初めて西洋式印刷技術を用いて発行された紙幣として知られ、日本国内の製造のみならず、ドイツでも製造されました。

しかし、全額面で同一のデザインを採用したことが、後に偽造や変造の問題を引き起こす一因となり、明治通宝10銭券は1887年(明治20年)6月30日に、その他の明治通宝は1899年(明治32年)12月31日に使用が禁止されました。

明治通宝10銭の偽物と本物を比較しよう

明治通宝10銭の偽物と本物を並べてみましたが、どちらが本物か偽物か分かりますか?

明治通宝10銭の偽物と本物の表面

裏面も確認していきましょう。さあ、どちらが本物か分かった方もいるかもしれませんね。

明治通宝10銭の偽物と本物の裏面

パッと見で遠くから見ると細かなデザインを確認できないので、どちらが偽物か見抜くのは難しいかもしれません。

一部分に拡大して見てみましょう。
鳳凰や「10銭」の文字が描かれた部分をズームアップします。

明治通宝10銭の偽物
明治通宝10銭の本物

さあ、どうでしょう。ここまで拡大すればどちらが偽物かお分かりの方も多いかもしれませんね。
そうです、正解は左側の明治通宝10銭が偽物となります。
引いてみるとうまく再現されているように見えたデザインも、細かなデザインを確認すると偽物のデザインの粗さが目立ちますね。

明治通宝を含む近代紙幣の買取価格一覧表もあわせてご確認ください。

次に、龍のデザイン部分を見てみましょう。

明治通宝10銭の偽物
明治通宝10銭の本物

左側の偽物のデザインは龍の図柄がとくに破綻していることがご確認いただけるかと思います。
また、龍の図柄の後ろにある「JAPANESE TREASURY」の文字がある赤色のデザイン部分に関してはまったく再現されていません。
現代のようにスキャン技術がないので、この偽物は墨で写し書き、つまり人力での偽造となり、当然機械に頼ったコピーではないため、細かなデザインの模写は不可能だったのでしょう。

明治通宝10銭の偽物
明治通宝10銭の本物

↑は表面左下隅を拡大した画像です。偽造防止目的のために施された赤色部分の再現についてはまったくできていません。
このように、明治通宝はそもそも偽造防止のために日本で開発された朱・青・緑の3種類の特殊インクを使用したり、細かなデザインを多く採用することで偽造防止に努めていました。
こうした偽造に対する対策は、再現の難しさを高めたという点で一定の成果としてはあるものの、最初に提示した画像のとおり、パッと見ただけでは判別が難しい偽造紙幣もあったため、明治通宝は短い期間で通用停止へつながっていきました。
裏面も確認してみましょう。

明治通宝10銭の偽物
明治通宝10銭の本物

細かなデザインは裏面でも再現しきれていません。ただ、こちら一見使用による摩耗によって、デザインがかすれているようにも見えます。
偽札をつくった人は、あえてこうした使用感を出して、細かなデザインが描けなかった箇所をカモフラージュした可能性もあります。

明治通宝10銭の大蔵卿印の偽物
明治通宝10銭の大蔵卿印の本物

こちらもやはりある程度の再現は試みているものの、本物の印鑑で確認できる太さや細さの違いまでは再現できていません。
偽物の印鑑はすべて一定の太さになっています。
割印部分についても同様のことがいえます。

明治通宝10銭の偽物
明治通宝10銭の本物

藤田組贋札事件とは?

藤田組贋札事件(ふじたぐみがんさつじけん)は、明治時代初期に起こった大きなスキャンダルです。1878年の年末から1879年にかけて、偽造紙幣が各地で見つかりました。この事件には、藤田組という大阪の有力な商人グループが関わっていました。藤田組の幹部である藤田伝三郎(ふじたでんざぶろう)と中野梧一(なかのごいち)は、1879年9月に逮捕されました。

この事件の背景には、井上馨(いのうえかおる)という有力な政治家がドイツに滞在中に贋札を作り、藤田組に送ったという疑惑がありました。しかし、結局確実な証拠が見つからず、同年12月に藤田伝三郎と中野梧一は釈放され、神奈川県の画家である熊坂長庵(くまさかちょうあん)が真犯人として逮捕されました。

この事件は、単なる贋札事件にとどまらず、当時の政治的対立や政商(せいしょう:政治家と密接な関係を持つ商人)と政治家の癒着を象徴する出来事として捉えられ、井上馨が以前経営していた会社や、山口県の税収に関する不正もこの事件で批判の対象となりました。

この事件の結果、藤田組は一時的に政府からの仕事を失い、経営が厳しい状況に立たされました。しかし、1881年に藤田組として再スタートを切り、その後も事業を拡大していきました。