中国と日本のそれぞれで多様な額面、様々な場所で発行されたため不定。
洪武通宝 の買取価格
洪武通宝の買取実績
洪武通宝とはどんな中国古銭?
洪武通宝(こうぶつうほう)は、明(みん)王朝の最初の皇帝である洪武帝(こうぶてい)の年号が刻まれた古銭です。
明王朝の政府は、元の時代よりも銅の古銭に依存していましたが、銅の不足が全国的に発生したため、洪武通宝の製造は何度も中断されました。最終的には1393年に紙幣が主流となったことで、洪武通宝の製造は完全に停止となりました。
日本でも、洪武通宝は日明貿易の影響で製造・流通が進み、17世紀まで続けられました。
洪武通宝に価値はある?
洪武通宝は、中国と日本で大量に製造されてきたため、プレミア価値が付けられるものは少ないです。
ただ、中国で発行されたものは、古銭の裏面に額面やどこで鋳造されたのかを示す文字が刻まれます。
その刻印しだいで高い価値が付けられる場合があります。
額面の種類としては、1文(小平)、2文(折二)、3文(折三)、5文(折五)、10文(当十)があり、
鋳造場所としては北平(現在の北京)、河南、済南、浙江、福建、湖北、広東、桂林などがあります。
たとえば、福建であれば「福」、桂林であれば「桂」、河南であれば「豫」の文字が刻まれます。
洪武通宝はいつ発行・流通していた?
洪武通宝は、中国の明朝初期のころ、1368~1393年に鋳造されました。
日本でも薩摩藩を中心に、17世紀まで製造され続けました。
洪武通宝は日本でも流通していた?
日本では、16世紀から多くの明朝の古銭(明銭)が「私鋳銭(しちゅうせん)」として流通し始めました。特に、九州の薩摩藩にある加治木(かじき)という村では、16世紀後半から17世紀初頭にかけて大量の古銭が生産されました。薩摩藩は琉球王国との貿易が非常に活発であったことで、明朝の古銭を模倣した硬貨が多く作られましたが、その1つに「洪武通宝」がありました。加治木で鋳造されたことを示すマークとして、裏側に「治」という漢字が刻まれています。
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洪武通宝の歴史
1361年、朱元璋(しゅげんしょう)は「呉王(ごおう)」の称号を持っていた頃に、当時まだ元(げん)朝が中国を支配していたにもかかわらず、応天府(現在の南京)に宝源局(ほうげんきょく)という造幣局を設立しました。朱元璋が最初に発行した古銭には「大中通宝(だいちゅうつうほう)」という銘が刻まれていました。これは、彼が国の名前を「大中(だいちゅう)王朝」にしたいと考えていたためですが、最終的には「大明(だいみん)王朝」と決定され、洪武(こうぶ)という元号が宣言され、洪武通宝(こうぶつうほう)が発行されました。
新しい洪武通宝が発行された後も、大中通宝の製造は続けられました。これは、モンゴル族から中国を奪還するまでに数年かかると予想されていたためです。大中通宝の製造が洪武時代に入っても続いていた証拠の一つに、1394年に設立された福州(ふくしゅう)造幣局から発行された大中通宝があります。他にも、裏側に造幣局の印がない大中通宝は、江西省(こうせいしょう)、陝西省(せんせいしょう)、四川省(しせんしょう)、雲南省(うんなんしょう)などの造幣局で鋳造されたと考えられています。
造幣局は南京、北平(現在の北京)、河南、済南(さいなん)、浙江(せっこう)、福建(ふっけん)、湖北(こほく)、広東(カントン)、桂林(けいりん)など、各地に設立されました。1375年以降、中国の各省の造幣局(宝泉局)には、発行する古銭の裏側にその価値と鋳造地を刻むことが政府から義務付けられました。江西省では115の炉が稼働していましたが、銅が不足している省では、政府が住民に銅を提出させ、古銭の製造に使用しました。
洪武通宝の製造は1368年に始まり、1文(小平)、2文(折二)、3文(折三)、5文(折五)、10文(当十)の5つの額面で鋳造されました。しかし、1371年に大きなサイズの洪武通宝と大中通宝の製造が中止されました。これは、市場で人々がその額面通りに受け取らなかったためです。1375年から1376年の間、古銭の製造は一時的に完全に停止されましたが、その後再開されました。しかし、全国的な銅の不足により、1387年には再び製造が2年間中断されました。1389年に再開された際、1文の銅貨は1銭(せん)、2文は2銭、3文は3銭、5文は5銭、10文は1両(りょう)という標準重量が定められました。1390年には、1文の洪武通宝の重量が1.2銭に増やされました。また、法律で洪武通宝は100%銅で作られ、1斤(きん)の銅から160枚の1銭硬貨を作ることが定められました。
1393年には中国の銅貨の製造が完全に停止され、銅貨の使用も違法とされ、大明宝鈔(だいみんほうしょう)という紙幣が主流となりました。
その後、明王朝の政府は1408年から1410年にかけて外国との貿易用として永楽通宝(えいらくつうほう)を鋳造するまで、銅貨の大規模な製造を行いませんでした。国内での流通用の銅貨の製造が再開されたのは、1503年に北京造幣局で洪治通宝(こうじつうほう)が導入された時でした。