寛永通宝の古寛永!松本銭を現在の価値と歴史から紐解く

古銭として注目度が高い寛永通宝を、さらに種類別で取り上げるシリーズの第2弾!

今回は、その中でも最古参にあたる古寛永の1枚「松本銭」の現在の価値やカンタンな見分け方を解説。
加えて、松本の地で新貨幣が鋳造されるに至った歴史にも迫ります。

この記事で分かる事柄はこちらです。

  • 松本銭の現在の価値とその理由
  • 松本銭の見分け方
  • 松本で新貨幣が鋳造された経緯

日本初の貨幣統一を彩った初期シリーズ松本銭、現在の価値は?

先ず最も気になるであろう現在の価値をご紹介。
同じデザインの銭の中でも価値が変わるため、それぞれの取引相場を見ていきましょう。

ご縁があれば豪運!松本銭(母銭)現在の価値

松本銭(母銭)
松本銭(母銭)

母銭の場合、買取価格が1万円を超えるケースも珍しくありません。

当時は小銭程度の価値だったものが、現在は1万円以上の値を付ける…なかなかロマンがありますよね。

母銭の価値が高い理由については、後ほど詳しく説明します。

通用銭でも侮れない、松本銭(通用銭)現在の価値

松本銭(通用銭)
松本銭(通用銭)

通用銭だと、買取価格は美品で1000円ほど。

金額のインパクトは劣りますが、1gあたり3.5円が寛永通宝の標準的な買取価格と考えると、通用銭でも価値は十分に上振れしています。

それぞれの価値には、どのような秘密があるのでしょうか?

全ての古銭共通!価値を決定づける2つの項目

種類を問わず、古銭の価値を決める要素は2つ。

母銭であること、または、現存枚数が少ない通用銭であることです。

詳しく見ていきましょう。

母銭の担った役割と通用銭より価値が高い理由

母銭は通用銭、つまり世の中に出回る銭を鋳造するため用いられた銭を指します。
衣服の型紙、漫画の原画のように、母銭は通用銭を作るのに欠かせない鋳型の作成に使われました。

通用銭から見れば、母銭は原型であり生みの親というわけです。

母銭は子である通用銭のように市場で流通することはなく、大量に発行されることもなかったので、現代では希少性の高い古銭。

当時は価値が付かない代物でしたが、現代になって通用銭と母銭の価値が逆転したと考えると、時の流れを感じられます。

松本銭が発行されたのは24年間のみ

そもそも枚数が少ない母銭と同じように、通用銭も現存枚数が少ないと他のものと比べて価値が高くなります。
松本銭が通用銭でも1000円前後の値を付けるのは、この条件に合致するからです。

発行されたのは1636年~1659年の24年間のみ。

寛永通宝の300年以上続いた通用期間と比べれば、短い年数であることは一目瞭然ですね。
当然ながら、発行枚数も他より少なくなります。

古銭の価値における共通項目
  1. 母銭は通用銭より価値が高い
  2. 通用銭でも現存枚数が少ないと価値は上がる

どちらも古銭における共通ルールなので、頭の片隅に置いておきましょう。
また、母銭と通用銭の見分け方については詳しい記事がございますので、こちらをご覧ください。

注目すべきは「寶」初心者でも分かる松本銭の見分け方

残る問題は「どれが松本銭なのか」ですよね。

刻まれているのが4文字のみにもかかわらず、それらの書体や背面のデザイン、材料によって種類は把握しきれないほど様々です。

しかしながら、鑑定士が持つような専門的な知識がなくても「松本銭なのでは?」と立ち止まれるだけの判断材料は誰でも揃えられます。
特に分かりやすい見分け方を2つ紹介しますので、ぜひお役立てください。

古寛永の共通デザインはス寶!

古寛永の共通デザインはス寶
松本銭 ス寶
新寛永の共通デザインはハ寶
新寛永 ハ寶

先ず「ス寶」と呼ばれる特徴的な書体です。

「寶」の足の部分が「ス」の形になっているのが分かりますでしょうか?
これは、紹介している松本銭をはじめとした古寛永に共通する書体。

他方、後の時代に登場する新寛永は「ハ」の形になっているため「ハ寶と呼ばれています。
並べてみると、違いがよく分かりますね。

わざと傾けてある?斜寶

寛永通宝 古寛永 長門銭 正字様 の表面
長門銭 正字様
寛永通宝 古寛永 松本銭 幺永手の表面
松本銭 幺永手の表面

次に「寶」の文字が斜めに刻まれている斜寶」です。

文字を刻む技術が安定していないだけにも見え兼ねませんが、れっきとしたデザインです。
ス寶ほど分かりやすくはないですが、注視すれば気がつくでしょう。

松本銭の見分け方
  • 「寶」の足の部分が「ス」の形(ス寶)
  • 「寶」の文字が斜めになっている(斜寶)

これらの特徴に当てはまる場合、松本銭である期待が高まります。
また、古寛永は希少性の高いものが多数存在するので、松本銭に限らずス寶の寛永通宝を見つけたら鑑定に出すのがおすすめ。

記事の最後に弊社の無料査定サービスのご案内もあるので、ぜひご活用ください。

松本で寛永通宝が鋳造されることになった訳と現代に至るまで

最後に新貨幣が松本藩(現在の長野県松本市)で鋳造されるに至った経緯を紐解きます。

当時の松本藩の石高は7万石、他と比べると小規模な藩でした。
近い将来の貨幣統一を見据えた新しい鋳造所、全国に8ヶ所しか設置しなかった重要な鋳造所を幕府はなぜ松本藩に設置したのでしょうか?

鋳造所の新設を誘致した松平直政と徳川将軍家の親戚関係

松本藩に鋳造所が新設された裏には、松本城の当時の城主、松平直政と徳川将軍家の親戚関係がありました。

徳川幕府が寛永通宝の鋳造に乗り出したのは1636年。

最初は江戸の芝と現在の滋賀県にあたる近江の2ヶ所で取りかかりました。
新貨幣の鋳造開始を1つの区切りとして、それまでの永楽銭を廃止。

翌年には貨幣統一のための大量発行に備え、松本・水戸・岡山・竹田・仙台・吉田・高田・萩の8ヶ所に鋳造所を新設。

新しい鋳造所の話が持ち上がった折、松平直政は徳川将軍家との繋がりを最大限に活用。
自ら強く要請し、己の治める藩へ鋳造所の誘致を成功させました。

幕府の今後を担う重要な新施設が藩内に建設されれば、人・物・技術が集まり、ひいては松本藩の発展に大きく貢献します。
松平直政の先見の明といっても過言ではないでしょう。

現代に松本銭を伝える枝銭と許状

松本藩で新貨幣の鋳造が行われていたと分かる遺物たちが、現在も松本市立博物館に残っています。

枝銭は鋳型の棹が付いたまま、私たちの時代までやってきた松本銭。
流通段階では付いているはずのないものなので、逆説的に松本藩内で鋳造が行われていたことを示す信憑性の高い資料といえるでしょう。

許状は松本藩で鋳造が始まる前年、今井右衛門に送られたもので、松本藩の奉行人7名の連署です。
鋳造を正式に認めることや、以降は他の者に同じ許可を出さない旨が示されています。

今井家は松本の町役人を代々務めた名家。

枝銭と許状は、同家で長年保管されていたものでした。
これらは1991年に松本市へ寄付されて、現在に至ります。

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松本銭の現在の価値から見分け方、歴史に至るまで語り尽くして参りました。

紹介した見分け方を知っていれば、手元にある寛永通宝が「価値のあるものかもしれない」と気づくでしょう。
しかしながら、古銭としての正確な価値が知りたい場合はお伝えした内容では足りません。

真贋や保存状態の確認をより細やかに行う必要があるからです。
鑑定は手間がかかるのでは…と思ったみなさん、ご安心ください。

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